吉良 創園長おたより
滝山しおん保育で毎月発行している園だよりに掲載された記事です。
2024年10月号
『「大豆を茹でる」と育つもの』
料理研究家の辰巳芳子(たつみよしこ)さん。この方のお話や文章からは、現代人として今を生きる人間の覚醒した意識を感じることができます。「ことことふっくら豆料理」という著書から「大豆を茹でる」という素晴らしい文章を紹介いたします。子どもたちが何を体験して何を育てていくべきかという問いへのヒントが見つかるのではないかと思います。
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まず、豆の中から、虫食いなどを捨て、洗います。大豆は今年豆なら前の晩から、豆の四~五倍量の水につけておきます(古いものなら、間で水を替え、二晩)。つけ水のまま煮始めます。蓋をしたまま煮たてると、必ず、ふきこぼれますから、煮たち始めたら、必ず蓋をずらして、火を細めます。常に煮汁が、豆の上二~三センチかぶっているように注意し、水分が減ったら、差し水をしながら、ゆっくり煮ます。
以前、暮らしの中に火鉢があった頃、女たちは炭と灰の調節で、ピンからキリまでの火を作ることを心得ていました。ピン、というのは、強火の遠火のこと。備長という種類の炭を風通しよく、たっぷり組んで、あぶりものをしたものです。キリの方は、ほっこりと、柔らかく、長持ちする火力のことです。
炭をねかせて、灰をかけることもありましたし、粉炭と呼んでいた、炭を扱うときどうしても出来てしまう、炭のくだけたものを利用することもありました。灰が火になるようなもので、鍋底一様に柔らかな火力があたることになったのです。なんと美味しい豆が炊きあがる道理ではありませんか。
豆を煮る鍋は、朱色のつばのついた楽焼きの土釜をどこの家でも使っていました。ですから、豆は、土釜で煮るものと、思い込んでいました。この土釜は、割れやすく、そのためでしょう、もう作られていないようです。
あぶりもの、炒りもの、煮もの。茶の間の火を囲んで、子供らは、火加減やら、手の動かし方やら、ゆったりと仕込んでもらったものです。灰を火にさらさらとかけて、火力を抑える場合、火の上に手をかざして、灰をかける前とかけた後の火力の違いを親がちゃんと納得させ、親もそれで安心したものです。
それらは、何気ないやりとりであったのですが、豆が炊けてゆく手応え、つまり、目を使い、舌で味わい分ける、指でさわる、香りの変化に注意する、などなどの細やかな対応の中で、料理以前の事どもも含め、五官の訓練を受けていたような気がいたします。この訓練により、子供らは自分を囲む外の世界に開眼し、その開眼によって、自己そのものを悟ってゆくことができる真の自己開発を身につけ、自信というものの「根」となるような手応えを集積したのでした。また、長い時間をかけて豆を炊く中で、継続的に注意力を維持する、神経の使い方も体得させられたと思います。
何事も、教育の場にならぬものはありませんが、豆を炊くようなことでも、意識的になされば、立派な、教育的場面が展開するのだと思います。
「辰巳芳子のことことふっくら豆料理」辰巳芳子著
農山漁村文化協会(農文協1991)