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2022年3月号

​『ぼくが ここに』

 

 久しぶりに、まど・みちおの詩集を手に取りました。「ぞうさん」を始め沢山の童謡の作詞をした方ですが、歌詞として書かれたもの以外の詩も素晴らしいものがたくさん。私の好きな詩を紹介します。

 

「ぼくが ここに」 まど・みちお

 

ぼくが ここに いるとき

ほかの どんなものも

ぼくに かさなって

 ここに いることは できない

 

もしも ゾウが ここに いるならば

そのゾウだけ

 

マメが いるならば

その一つぶの マメだけ

しか ここに いることは できない

 

ああ このちきゅうの うえでは

こんなに だいじに

まもられているのだ

どんなものが どんなところに

いるときにも

 

その「いること」こそが

なににも まして

すばらしいこと として

 

 

 「ぼくがぼくとしてここにいる」ということは、「ぼく」は周りと切り離された存在であるということ。その存在の場には、自分しかいることはできません。反抗期、イヤイヤ期で最初の自分意識が目覚めることは、「ぼくがここにいる」と感じる第一歩なのだと思います。

 

 私と同じ人間はどこにもいません。たくさん違いがあります。体や心や精神に関するいろいろなことも、行動の仕方、話し方、興味を持つ対象、好きなもの、嫌いなものなども、違いだらけです。今は多様性の時代と言われますが、一人一人全く別の個として独立しているのが人間で、最初から本当に多様なのです。型にはめられて同一化していったり、自発的な行為が制限されたり、人間によって作られて基準によって善悪が判断されたり、他の人と違うと非難されたり、逆に他の人と同じになろうとしたり…。そのようなことがない世の中にならないものでしょうか。

 

 卒園する年長さんたち、一人ひとりがその子ならではの素晴らしい光を持っています。この光が、これからも輝き続けるといいなと思います。滝山しおん保育園は、ここに集う子どもも、大人も、皆がそれぞれに健やかに「ここにいる」ことができる場所になりたいと思っています。

2022年2月号

      いやいや期と自分意識の目覚め

 

 

 二歳を過ぎると、子どもは「いや!」「だめ!」「しない!」と言い始めます。いわゆる「いやいや期」「反抗期」です。この時期に「いや!」「だめ!」と言うのは当たり前。でも、お母さんを困らせようと思って「いや!」と言っているのではありません。まだその言動には裏表はなく、故意に嘘をつく能力はまだ育っていません。また、反抗期は一時的なもので、永遠に続くわけではありません。

 

 赤ちゃんは明るい覚醒した意識を持っていません。まだ暗いけれど広がりをもった意識の中で暮らしていて、口に入れたり、触ったり、握ったりしながら、いろいろなものごとと少しずつ出会い気づいていきます。それに伴い、まだ暗い意識の中に少しずつ明るい部分が生まれ、広がっていき、二歳半くらいになると、その覚醒した明るい意識の部分を「自分」と感じ始めます。最初の「自分意識」の目覚めです。だいぶ体は育ってきていて、自分が体を通して外の世界と分離した存在であることに気がつくのです。

 

 この時期から、自分のことを「わたし」「ぼく」と呼び始めます。それ以前は、呼ばれた名前が主語になります。「ターくんはね。」という感じです。また、この時期から思い出せる記憶が始まります。それ以前のことは思い出すことはできません。ここから自分の歴史が始まると言ってもよく、その積み重ねが、通常の私たちの意識です。

 

 「いやいや期」に、ぶつかり抵抗を感じることにより、自分を感じ始めるのです。子どもはぶつかることにより相手の存在を感じると同時に、自分自身を感じ、確認します。もちろん、いやいや期にも個人差があるので、始まる時期、通り過ぎる時期、「いやいや」の度合いもいろいろですが、これは人間の成長発達の中の、いわば自然現象のようなもの。どの子ども必ず通過する成長発達の一段階です。

 

 反抗期の子どもにはどのように接したらよいでしょうか。まず今は、「いやいや」言う時期で、自分意識の覚醒のために必要でそうしていることをわかって接しましょう。「いやいや」という子どもを「よし、よし、やっているな! ちゃんと成長している証拠だ!」くらいの気持ちで受け入れて、その上で子どもの言っていることに振り回されず、子どもにお伺いはたてずに、「朗らかな壁」になってあげてください。

 

 「いや」と子どもが言ったら「じゃあ、これは?」「これにする?」と質問、お伺いを続けると、それは「いや、ダメ、ノー」と答えさせる誘導尋問になってしまいます。これを続けてしまうと、子どもは自分を感じることが出来ません。これでは「壁にぶつかって跳ね返る」のでなく、「暖簾に腕押し」状態です。「壁」になることは、怖く、感情的に怒ることではありません。大人自身がしっかりと、子どもの行うべきこと、その子にとって必要なことをしっかりと決めて、それを当たり前のこととして明快に伝えます。「質問文」ではなく、「。」で終わる文章にして、説明も省きます。なぜそれをするべきかの理由は、大人が分かっていればいいのです。

 

 一度、気持ちよくはね返られる「朗らかな壁」になってみてください。最初はうまくいかなくても、いつも同じ「朗らかな壁」であれば、子どもは「そういうもの」と、それが染み込んでいき、「壁」が動かないことを気持ちよく感じていきます。「壁」はネズミには、かじられますが、いつもそこに立っていて動かないのです。 大人がしっかりと自分意識を持っていることが、自分意識が目覚めていく子どもにとって、とてもよいお手本になるのです。

2022年1月号

           独楽(こま)の秘密

 

 

 あけましておめでとうございます。お正月といえば「独楽回し」。「独楽」は、とてもすばらしいおもちゃの一つです。指をひねって回すもの、両手の手の平をこするように回すもの、そして紐を巻いて投げてまわすものなどなどが一般的ですが、子どもたちは、どの独楽も最初からうまく回せるわけではなく、どうしたら回せるかを、遊びながら身につけていきます。

 

 紐巻き独楽を回すのには、先ず紐を上手に巻くことが大切。片手で独楽を持ち、反対の手で紐を巻いていくときには、いろいろな能力が必要です。巻いていく際、どのくらいの力で紐を引っ張るかがとても大切。独楽の芯の周りは、力を入れて緩まないように巻いていきます。最初がしっかり巻けないとその外側にうまく巻いていくことはできません。中心がしっかり巻けると、その後は、注意深くその外側へと紐を巻いていきますが、外側になるに従って、少し力を抜きながら巻いていかないと、せっかく巻いてきた紐の渦巻きが、崩れてしまいます。紐がうまく巻けると美しい渦巻きが現れます。

 

 独楽の紐巻きは、指、手、腕の繊細な運動感覚、均衡感覚が要求される高度な行為です。最初はうまくできなくても、何度も繰り返しやってみるうちに、少しずつこつがわかってきて、上手になっていきます。そして紐をしっかり巻けるようになると、もう回せたも同然。独楽の投げ方は、紐巻きに比べたら簡単なことで、紐が巻けるようになると、たいていはすぐに回せるようになります。

 

 そして自分で独楽が回せたとき、とても大きな喜びが生まれます。初めて成功したときの喜びは特別なものです。そしてまた失敗しても、繰り返していくうちに、だんだんと確実に回せるようになっていきます。

 

 独楽回しは一つの良い例ですが、伝統的なおもちゃの中には、それで遊んでいくうちに、「からだがかしこくなっていく」という側面があります。乳幼児期の子どもたちのこの時期の課題の一つは、自分のからだを自分でコントロールできるようになること。独楽回しを子どもが楽しんでいく中で、自然に指や手を巧みにコントロールできるようになります。独楽を回すために必要だった繊細な運動能力や均衡感覚は、もちろん独楽回しだけに使われるものではありません。生きていくために必要な能力を、子ども達はこのように、遊びの中でこそ、身につけていくのです。

 

 回っている独楽は、とても速く回転しているのに、はっきりと静けさを持っています。速い動きと静けさという、矛盾するような二つの質が、うまく回っている独楽には、同時に現れるのです。そして回転が遅くなると静けさは失われていきます。どの民族の文化の中にも独楽があるのは、何か大きな秘密があるのではないかと思いますし、漢字での「独楽」と書くのも面白いですね。

2021年12月号

           バランスという器

 

 

 自分の体を健やかに育んでいくこと。これは乳幼児の、この時期ならではの大きな課題で、体が育つことには様々な運動能力を身につけること、感覚器官を育むことも含まれています。行為するための道具としての自分の体を思いのままにコントロールできることは、自由で自発的な活動の基盤です。乳幼児は先ず、頭ではなく、体が賢くなる必要があるのです。

 

 体をコントロールするために大切なのはバランス。均衡感覚です。自分の体を動かすとき、私たちは無意識に均衡感覚を働かせています。歩き始めた乳児が、バランスをとって歩くことを身につけていくプロセスは、見ていてとても微笑ましいものです。そして面白いことに、バランスが取れているとき、そのことは意識されません。バランスが崩れたときに、ハッとして、バランスが崩れたことが意識にのぼります。

 

 たくさんハイハイをすること、たくさん歩くこと、走ること、木登りや縄跳びをすること。積み木、コマ回し、あやとりなどで遊ぶこと。そして織物、刺繍、料理、掃除などの手仕事や家事の仕事の中の動きも、体全体を使う大きなバランスや、手先の器用さにも結びついた繊細なバランスを身につけていくことにつながっていきます。荒尾先生との造形、岩重先生とのオイリュトミー、北洞先生との健康体操、紫野先生との陶芸などなど、講師の先生方との活動はもちろん、それ以外の滝山しおん保育園でのさまざまな活動は、そのためのよい刺激になっています。

 

 バランスが取れているとき、そこには天秤のように、中心があります。バランスが取れている状態は、目に見えない「器」となり、そこに中心となるものを受け取ることができるのです。体をバランスよく使うことができるとき、その人の精神的中心である自我が、その「器」の中でしっかりと働くことができます。しかし中心は、いつも同じ所に留まっていません。動きの中で常にバランスをとり、中心を見つけていくことが必要。動きの「器」です。

 

 体だけではなく、心や精神的な面でも必要なのがバランス。私たちは生活の中で、二つの対極をなすものの中に常にバランスをとっていく必要があります。自分と家族、自分と社会、家庭と社会、自己軸と他者軸、個と集団、子どもと大人、人間と自然、古いものと新しいもの、目に見えるものと見えないもの、挙げていくときりはありません。自分の立ち位置を固定してしまったり、何かに執着したりするのではなく、両極をしっかりと見ながらバランスをとっていくこと。それができると、大切なものが入ってくる動きの「器」が形成されます。それがうまく機能していると、その中に物ごとの本質や意味を受け取ることができ、そのことは人間を健康な状態に促してくれます。そして、クリスマスを迎える冬至に向かう時期、すべての人にとって、この「器」は「マリア」であり、そこに「光」が宿り、そこから「光」が生まれていくのではないかと思います。

2021年11月号

           マザーテレサの言葉

 

 

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

 

 これは、マザーテレサの言葉の一つです。有名な言葉なのでどこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。とても意味深い言葉で、いろいろな観点からとらえることが出来ます。

 

 例えば、ネガティブなことばかり考えていると、ネガティブな言葉として、それは私たちの口から発せられてしまいます。「めんどうくさいな。」「どうせうまくいかないんだ。」「やってもむだなのに」などの言葉を発しながらの行為は、やらされている行為、仕方がなくする行為。その行為を楽しんで行うことはあり得ません。そして、その行動を見ている他の人に不快感すらもたらします。

 

 いやいや行うことが続いていくと、いやいや行うことが当たり前になり、それが習慣になってしまいます。習慣に対して私たちは無意識です。無意識に当たり前にいつも行っているのが習慣。そしてその習慣は、さらに深まっていき、その人の性格になっていきます。無意識にいやいや行うという行動様式が、その人の性格になり、最後には、いやいやと行うその性格は、その人の生き方に、一生に、運命に影響を及ぼすことになってしまいます。

 

 逆に、健全なよいことを当たり前に考えていると、自然によい言葉が発せられるようになります。よい言葉を伴う行為には、いやいや行う行為とは違って、その行為をすることに喜びを感じるでしょう。その行動はまわりによい波動を伝えていきます。そのように喜びを持って行為することが当たり前になり習慣となると、それはその人の性格になるのです。そしてそれはその人の人生をよいものに、意味あるものに変えていくのではないでしょうか。

 

 そのような人間に私たち大人が成れたら、私たちの傍らで過ごす子ども達にとって、すばらしいお手本になるでしょう。そしてそれは、子ども達がそのような人に育っていくことにつながっていきます。思考、言葉、行動、習慣、性格をよいものにして、自分の運命をよいものに変えていきたいものです。それによって社会も変わっていくのではないかと思います。

 

 このコロナ禍の社会の中で、もしマザーテレサが生きていたら、どんなことを話し、行うのだろうか、と想像してみると、何か気づきがあるかもしれません。

2021年10月号

       ネイティブ・アメリカンの子育て

 

 「ネイティブ・アメリカンの子育ての教え」を読み返してみました。ネイティブ・アメリカンは、大自然に根ざした独自の文化を持つ民族。その子育ても独自の精神性や文化に強く結びついています。しかし、この子育ての教えは、彼らだけの特別なものではなく、誰にでも納得できる内容です。

 

《ネイティブ・アメリカンの子育ての教え》

1、 批判ばかり受けて育った子は、非難ばかりします。
2、 敵意に満ちた中で育った子は、誰とでも戦います。
3、 ひやかしを受けて育った子は、はにかみ屋になります。
4、 ねたみを受けて育った子は、何時も悪い事をしているような

   気持ちになります。
5、 心が寛大な人の中で育った子は、がまん強くなります。
6、 励ましを受けて育った子は、自信をもちます。
7、 ほめられる中で育った子は、いつも感謝することを知りま

   す。
8、 公明正大な中で育った子は、正義心を持ちます。
9、 思いやりのある中で育った子は、信仰心を持ちます。
10、人に認めてもらえる中で育った子は、自分を大事にします。
11、仲間の愛の中で育った子は、世界に愛を見つけます。

 

 これを読むと、子どもの傍にいる私たちが、どうしたらよいか、どうあったらよいかが見えてきます。

 

 相手を批判せず、敵意も持たない。相手をひやかさず、ねたまない。いつも寛大な心を持ち、相手を励ましたり、ほめたりする。何に対しても公明正大で、思いやりを

持つ。相手を認め、仲間との愛を育む。

 

 「相手」と書きましたが、これは、子どもだけでなく、一緒に暮らす家族、学校や職場などで出会うすべての人に当てはまります。そして「相手」を「自分」と置き換えてみると、違った気づきもあるかと思います。

 

 乳幼児期の子どもたちは、その子どもに関わる人たちが考えていること、感じていること、行っていることを、そのまま受け入れます。私たちがどうあるかは、子どもがどう育っていくかに直結しているのです。子どもにこう育ってほしいと思うのなら、そのような私たちになるのが一番。私たちは真似をして学んでいく子どもたちのお手本です。大人が自分自身のことを客観的に見る視点を持つことが、子どもがどのように育っていくかにつながっていくのです。

 

最後にもう1つ有名なネイティブ・アメリカンの教育についての言葉を紹介します。これも奥深い言葉です。

 

  乳児はしっかり、肌を離すな

  幼児は肌を離せ、手を離すな

  少年は手を離せ、目を離すな

  青年は目を離せ、心を離すな

2021年9月号

          『今を生きている子ども』

 

 時間というのは不思議で、過去から未来に向かって流れていき、その流れの中に「今」があると感じられると同時に、未来から流れてきて「今」を通過してすぐに過去になっていくとも感じられます。子どもは、大人と比べて、未来から過去へ流れている時間と無意識に強く結びついているように思います。

 

 私たち大人は、過去を振り返って、過去の出来事を評価したり反省したりできますし、それにより気づいたことを、今度はこうしようと意識的に未来につなげることもできます。自分の意志で今の行為をコントロールできるのが本来の大人でしょう。

 

 乳幼児はどうでしょうか。彼らは「今」の住人。「今」を生きており、未来や過去を大人のように意識することはまだできません。過去を意識的に振り返って、次にはこうしようと意識的に自分の行為をコントロールすることは、5歳を過ぎた頃から少しずつできるようになってはいきますが、個人差もあり、もちろんすぐに大人のようにできるようになるわけではありません。

 

 また乳幼児は、大人のように理由を意識して行為することはできません。いわば自然現象のように、無意識に、自然に「今」を生きているのです。そのような乳幼児に対して、私たち大人が当たり前に、けっこう頻繁に使ってしまう言葉があります。「どうして?」「どうしてそうするの?「なんでまだやっていないの?」といった「今そうしている理由」を問う質問です。

 

 意識的に行為していない子どもに、その行為をしている理由、していない理由を問うたところで、答えられないのが普通の子どもの姿。自分でその行為をしている理由を大人のように意識できる子どもはいないのです。ただ、その子どもがその行為をしている理由は必ずあります。でも、その理由を子ども自身は知らないのです。「どうして」と子どもに尋ねても子どもが答えられないとき、その行為をやめないとき、私たちは、イライラし、それは子どもへ接し方に直結してしまいます。子どもが何故その行為をしているのか、何故その行為をしていないかは、子どもに問うのではなく、大人自身で見つける必要があるのです。

 

 子どもが生まれながらに持っている精神的個性、遺伝により受け継いだ体質、生まれてからどのように生活してきたかという環境。この三つのことが子どもの「今」に現れています。そして子どもがその行為をしている理由が、その中にあります。

 

 先月、子どもを観察することについて少し書きましたが、子どもが何故その行為をしているかを理解するために、子どもをよく観察することは、とてもプラスになります。子ども自身のことはもちろんですが、子どもの暮らす環境、子どもへの私たち大人の関わり方なども、客観的によく観察してみましょう。それにより子どもの「今」の姿に近づくことができ、子どもをその行為に駆り立てている「理由」にも気がつくことができると思います。そしてそれは、大人が自分の思いや考えを子どもに押しつけて、そうならないことでイライラするのとは違う、子どもにも大人にも調和の取れた生活へとつながっていきます。

2021年8月号

          『選ばれたものとして』

 

 親は子どもを選ぶことは出来ません。頭のいい、才能を持っている、皆から好かれる、健康な子ども。私たち大人は子どもにこのようになって欲しい、このように育って欲しいという理想的な子ども像を持ちます。そして、そのような子どもにするためにはどうしたらよいかを、考え、行います。もし親が子どもを選ぶことが出来たら、望み通りの子どもを生むことが出来たら、子育てはとても簡単なことになっているでしょう。

 

 また、背が高く、顔立ちがよく、よい声で、高い身体能力を持っているなどの希望を持っていたとしても、そのような子どもを産み分けることも当然出来ません。将来、医学の進歩で何らかの産み分けが可能になったとしても、子どもの個性まで選ぶことは不可能でしょう。

 

 私たちが出来ることは、生まれてきた子どもの体質や気質や精神的個性を、子どもが生まれながらに持っているもの、携えてきたものとして受け入れること。ありのままのその子どもの姿を受け入れることが、子育てや教育の出発点です。

 

 こうあってほしいという大人が描く子ども像が、その子どもが育っていく道の先にあるのなら、子どもはそのように育っていくでしょう。しかし、大人の描く子ども像が子どものこれから歩んでいく道にない場合、そのためにどんなに親や教師が努力してもうまくいきません。そして、この子はなんでそうならないか、ということに大人はいらいらしてしまいますし、子どもも大きな負担を感じます。

 

 子どもがどのように育っていきたいかを教えてくれるのは、その子どもだけです。そして残念ながら言葉では教えてくれません。そこに気づくために私たちが出来るのは、先ず子どもをよく見ること。ありのままのその子どもの姿をよく観察してみてください。例えば身体。目、眉毛、鼻や耳の形、髪や肌の質、歩き方、話し方、食べ方、眠り方などなどを、植物観察をするように出来るだけ客観的に、主観的な判断なしに見ていきます。それによって、形や動きといった目に見える現象として現れている目に見えないその子の本質に近づくことが出来るのです。

 

 子どもの観察を通して、こうあって欲しいという子ども像ではなく、今のその子どもの生き生きとした姿のイメージを持つことが可能で、子どもの自ら育っていこうとする意志に、少し近づくことが出来ます。もちろんすぐにこの子はこう育ちたいのだ、とわかるわけではありませんが、子どもは親や教師が自分のことをちゃんと見てくれている、受け入れてくれているということを感じるのです。そこに表面的でない信頼関係が生まれます。

 

 その子どもがこれから先どのように育っていくかは、親にも教師にもわかりません。だから子育てや教育は難しいけれども面白いのです。そして、それだからこそ、子どもの今の姿をしっかりと見ることが大切なのです。

 

 親は子どもを選ぶことは出来ないですが、子どもは親を選んで生まれてきているのでしょう。そのことを子ども自身は忘れてしまっていますが、子どもは自分の選んだ、親や大人を信頼したいのです。それに答えていけたらと思います。

2021年7月号

         『折りたたみ傘の準備』

 

 やりたいことがあるとします。自分自身で計画を立て、準備をしてやり始めます。その活動がうまくいったら、喜びや達成感、満足感が生まれます。自分で決めたことを自分がしたいときにするのですから、見通しも良く、自分のこととして行えますし、もし失敗しても、自分で反省して次につなげることができるでしょう。

 

 しかし日常の生活では、いつも自分の思い通りに事が運ぶはなく、何か邪魔が入るものです。私たち大人、特にお母さん自身のやりたいことを妨げるもの、邪魔するものとは何でしょう。その一つは、愛する我が子。お母さんが自分でやりたいことをしているときに、お漏らしたり、「着ない!」と主張して譲らなかったり、兄弟げんかを始めたりと、さまざまなことが起こります。

 

 お母さんの自分の活動は、このような要因でストップ。子どもに対して、そこで起こった物事に対して、何らかの対応をしなければなりません。自分がしたいことを予告なく突然、中断させられたわけですから、むかついたり、いらだったりします。自分はこの子の親であり、子育ては自分の大切な課題だと頭でわかっていますし、子どものことを心から愛しており、子どもが起こすいろいろは、成長発達の中で必要な当たり前なことだと知っているのに、です。

 

 子育てをたいへんと感じる原因の一つは、予定していないことが、頻繁に突然起こり、それにより自分のしていることが妨げられること。子どもが癇癪を起こしたり、お漏らししたり、喧嘩をしたり、コップをひっくり返したり、といったことは、お母さんがその時に何をしているかとは関係無しに突然起こります。そしてそれに振り回されてしまいます。すると「なんで今それをするの?」と、それを子どもにぶつけてしまうこともあるでしょう。しかし乳幼児期の子どもは、お母さんを困らすために「わざと」しているのではなく、無意識にそれをしているのです。

 

 子どもの予期せぬ行動を「自然現象」、「天災」として受け止めてはどうでしょう。突然、雨が降ってきたのに傘を持っていないとき、雨や雲や神様に怒る人はいません。「しかたない」と自然に受け入れることが出来ます。「梅雨」には雨が多く降ることを私たちは知っているので、折りたたみ傘を常に携帯していれば、急な雨で濡れることはありません。

 

 乳幼児期は、人生の初期にある「雨期」のようなもの。いつ雨が降っても大丈夫な準備をしておきましょう。準備とは、汚した服をすぐに着替えられるように、着替えをすぐに取り出せるようにしておくこと、何かをこぼした時にすぐに床を拭ける雑巾を食卓の近くに準備していくこと、何かをやめさせたいときの言葉かけを考えておくこと、といった具体的なことでもあり、この時期には雨は降るものと、それを受け入れられる健康な精神・心・身体の状態を維持することなど、いろいろとあるかと思います。

 

 そして、折りたたみが傘を持っていることへの自覚。つまり、自分は子どもが突然やらかすいろいろなことにすぐに対応できる準備をしていることを自覚していること。それがあると、子どもとの生活が、調和の取れた穏やかなものになるのではないかと思います。

2021年6月号

        『「見えない学力」の大切さ』

 

 先日、木村泰子さん(大阪市立大空小学校の初代校長)のウェビナーに参加しました。「みんなの学校」という不登校児のいない学校、問題児もいない学校として知られている大空小学校の一年間を追ったドキュメンタリー映画が有名で、彼女の大空小学校での取り組みはとても興味深いものです。大空小学校には校則はなく、モンスターペアレンツもいないそうです。

 

 彼女の話の内容は、実際の子どもたちや保護者(サポーターと呼ばれています)とのエピソードがたくさんあり、大阪の方ですし、とてもバイタリティのある魅力的な方で、聞き手を話に引き込む力もあります。その中で、一〇年後の子どもに必要な「見えない学力」という言葉が印象的でした。

 

 「見えない学力」とは何でしょうか。国語算数などの学科のテストで点数をつけることのできる学力は「見える学力」だと彼女は言います。「見える学力」とは「成績」、いわゆる「学力」。そして「見える学力」を育てようとするのが普通の学校の教育。この「見える学力」も大切なのですが、「見えない学力」を育てることの方が実は大切で、「見えない学力」が育っていくと「見える学力」も付いてくると言うのです。

 

 一〇年後の社会のキーワードは、「多様性」、「共生」、「想定外」。一人一人の違い、個性を受け止める力、その違う個性を持った人同士や人と自然が共に生きていく力、そして今回のコロナウイルスのような想定外のことが起こってもそれに対処して生きていく力。これらの力こそが、「見える学力」ではなく「見えない学力」なのです。

 

 彼女は「見えない学力」として、「人を大切にする力」、「自分の考えをもつ力」、「自分を表現する力」、「チャレンジする力」の四つ挙げています。

 

 例えば「人に迷惑をかけてはいけない」と教えると、子どもは人を排除するようになってしまうと彼女は語ります。迷惑をかけてはいけないと教わった子どもは、人の失敗を許せなくなってしまうのです。なぜなら、失敗をして人に迷惑をかける人は、悪い人と思ってしまうから。人に迷惑をかけるなと教わった結果、人を大切にする力が育たなくなってしまい、「あいつは邪魔」と感じてしまうのです。人は失敗を通してこそ学んでいくことができます。自分が失敗すること、人の失敗を受け入れることを通して「人を大切にする力」という「見えない学力」が育っていくのです。

 

 彼女の話を聞いて、滝山しおん保育園との共通点をたくさん感じました。乳幼児期にこそ「見えない学力」の基盤が育まれていきます。

 

 講座の後、彼女の最近の著書を読みました。とても読みやすい本ですが、示唆に富んでいて勉強になります。子どもと共に生活する大人皆に読んでいただきたい本です。保護者の皆さん、ぜひ読んでみてください。子どもへの接しかたのヒントが満載です。本当に一番読んでほしいのは、教育行政と関わる政治家やお役人の皆さんですが・・・。

 

『10年後の子どもに必要な「見えない学力」の育て方』

「困った子」は「困っている子」

 木村泰子著 青春出版社 2020

 

2021年5月号

『機嫌のよい子どもと大人』

 

 機嫌よいとき、子どもは自発的によく遊び、食事も美味しそうに食べます。友達とも大きなトラブルなく過ごしますし、ぐずることも少ないでしょう。そして機嫌よく過ごしている子どもには、よい生活習慣がすっと身についていきます。

 

 子どもが機嫌よく過ごしている状態をよく見てみると、身体的にとても健康な状態であることがわかります。体の状態がよいと、心や精神のよい状態を生み出します。健康な体は健康な心や精神の営みの器。その器の中に機嫌のよさが生まれるのです。

 

 これは逆に考えることも出来ます。よい生活習慣が身につくと、子どもは機嫌よく、健康に過ごすことが出来るのです。食事中は座っている、使ったら片付ける、部屋の中で走らない。鼻をかむ、外から帰ったらうがいをする、トイレから出たら手を洗う。靴を脱いだら揃える、椅子は机の下に戻す。生活の中で当たり前にすべきことを、無意識に習慣のようにすることが出来ると、その上にクリエイティブな自発的な遊びや、その子らしい心の営みが始まります。

 

 当たり前のことが当たり前に出来る体を育てること。それは子どもが機嫌よく健康に生活していく上で、とても大切なことです。乳幼児期には、頭を賢くするよりも先に、体が賢くなることが必要なのです。では、子どもが機嫌よく、健康に育っていくためにはどうしたらよいでしょうか。行なうのは少し難しいですが、簡単な答えがあります。

 

 それは、「私たち大人が、機嫌よく過ごすこと。体も心も精神も健康であること。そして大人自身がよい生活習慣を持っていること」。

 

 子どもの傍らにいる私たちが、自分自身が持っていない生活習慣を子どもにだけ求めても、うまくいくはずはありません。乳幼児期の子どもは、無意識に真似をすることによって様々ことを身につけていきます。私たち大人は、彼らにとってお手本です。

 

 また、現代の子どもを取り巻く環境の中には、子どもの機嫌を損なう物がたくさんあります。そしてその多くは、子どもの機嫌を取ることに使われているのです。それらを子どもは美味しいと言って食べ、楽しいと言って遊びます。しかし化学調味料のうま味、メディアからのたくさんの子ども向けの映像や音楽、ゲームやスマホなどは、表面的に子どもの機嫌を取ることができても、深いところでは、子どもの機嫌を損なっていることが多いのです。これら影響を強く受けている子どもは、なかなか、よい生活習慣を身につけることが出来ません。本当に子どもの機嫌をよくするもの、健康にするものは何かということに少し意識的になり、子どもたちが機嫌よく過ごすことができるために本当に必要なものを選んでいけるとよいと思います。

2021年4月号

                 『カムイとコタンと保育園』    

 

 アイヌの子育ての話です。ずいぶん前に園だよりで紹介した内容ですが、コロナ禍に新しい子どもたちを迎えるにあたり、再度共有したいと思います。

 

 アイヌにとって、人間の持ち物の中で一番大切なのは「名前」(アイヌレ)。人は死んでも名前は残る、という考えがその背景です。名前が大切なものなのに、アイヌは赤ちゃんに名前をつけません。名前をつけるのは、二歳、三歳になって、ちゃんと喋ることができるようになってからです。

 

 言葉を話す前はまだ人間でないと、アイヌは捉えているのです。それは赤ちゃんが人間以前の下等なものだからではありません。赤ちゃんは「カムイ」なのです。「カムイ」とは「神様」。アイヌにとって赤ちゃんは、人間ではなく神様なのです。赤ちゃんは、泣くとおっぱいがもらえ、泣けば寝かせてもらえる、泣けば抱っこしてももらえます。何か欲しいときは、言葉でその意志を伝えるのではなく、泣くことによってそれを叶えてしまいます。言葉がいらない存在、泣けば用が足りる存在なのです。このような存在は神様以外にはあり得ない、とアイヌは感じているのです。  

 

 神様に「しつけ」はいりません。しつけてもいけません。赤ちゃんにしつけは必要なく、しつけは言葉を話し始めてからでよいのです。言葉を話すことによって人間になるのです。人間になると、わがままになり、自分の欲求を満たすために嘘もつくようになります。もちろんアイヌは、人間となった子どもを大切に育てていく文化を持っていて、神様である時期の子どもだけを大切にしているわけではありません。アイヌは自然、生命をとても大切にする文化を持っているのです。

 

 赤ちゃんは「カムイ」ですから、その子を生んだ母親のものではありません。母親は神様から預かっているだけなので、その時期にはしつけをしなくてもいい、赤ちゃんのことで一喜一憂するな、とアイヌの長老は語っています。では赤ちゃんは誰のものかというと「コタン」(村)のもの、つまり皆のものなのです。「コタン」の皆で子育てをしていくのがアイヌの文化。赤ちゃんは「カムイ」であり、「コタン」のものなので、皆で大切に関わっていくのです。

 

 アイヌの「コタン」のような、皆で一緒に生き、一緒に子どもを育てていく文化が失われるとともに、個の意識が発達してきたのが現代人でないかと思います。しかし今の社会では、自分の子どもを自分の所有物のように接したり、他人の子どもが何をしていても無関心で関わることを避けたりするような傾向があります。私たちは現代人として、意識的に「コタン」を作っていく必要があるのです。人生の最初の特別な時期の子どもたち、神のような子どもたちが、健やかに育っていくことのできる「村」を作っていくことは、子どもと関わっている親や保育者、そのほか全ての大人の課題なのではないでしょうか。

 

 新年度の始まりに際し、滝山しおん保育園は、現代社会のなかで失われてしまった「村」の役割を少しでも多く担っていかなければと思います。皆さまご一緒に「カムイ」を育んでいく「コタン」を作りあげてまいりましょう。

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