2023年3月号
『期待すること、関心や興味を持つこと』
子どもが、その子らしく健やかに育っていくことに希望を持つことは、素晴らしいことです。子どもの成長発達だけではなく、この社会情勢の中でも、希望を持って生きていくことは、私たちの生きていく力に、光を与えてくれます。しかし子どもや社会やその他いろいろなことに対して期待することは、希望を持つこととは違い、よいものを生み出すとは限りません。
私たちは子どもに対して、いろいろと期待します。「残さずに食べて欲しい」、「早く寝て欲しい」、「風邪を引かないで欲しい」、「兄弟げんかをしないで欲しい」。挙げていくときりはありません。夫は妻に、妻は夫に、親は子どもに、子どもは親に、教師は生徒や保護者に、親は教師や学校に、上司は部下に、部下は上司に、国民は国に、国は国民に、いろいろと期待します。
しかし実際には多くの場合、期待は裏切られてしまいます。そして期待が裏切られると、期待した人には、イライラ、がっかり、怒り、むかつき、悲しみ、悩みなどが生じます。期待は、期待する人が一方的に、勝手にしているものなので、期待される方の意志、現実や都合などは、気にされていません。もちろん、勝手に期待したことが、期待された方の意志、現実、都合などとうまく合えば、期待通りにことが運びます。しかしそのようになる可能性は低いのではないでしょうか。期待をかけられた方からすると迷惑というケースも頻繁です。
期待する人と期待される人が、同じ人間であれば、期待が裏切られることはないのでしょう。しかし、期待する人と期待される人は別の人。何かを期待するときは、意識的、無意識的を問わず、自分にとって都合のよいことを相手に求めてしまいます。
子どもや、相手に対して、期待する代わりに、ありのままのその人を見る、感じる、受け入れてみましょう。事実を事実としてしっかりと客観的に見るのです。それによって子どもの意志、現実、都合に気づくことができます。そして子ども自身が今、何をしたらよいか、子どもに対して私はどう関わったらよいかが、事実に即したかたちでわかってくると、それを行ったとき、ものごとがうまく動くのではないかと思います。この場合、その子どもに相応しいことを期待することになるので、期待は裏切られずにすむでしょう。また、期待されているからそれに応えるべき、ということを乳幼児に期待しても裏切られるだけ。期待に応えたいという意識をはっきりと持つことができるのは、9歳くらいになってからだと思います。
ものごとがうまくいかない原因の一つは、事実や現実をしっかり見ることをしないで、こうあるべきだ、こうして欲しい、という現実でないことを基準にして行為してしまうことにあるのだと思います。子どもや相手に関心を持つこと、興味を持つことは、現実を客観的に見ることの出発点になります。関心を持つこと興味を持つことは、外から仕向けられることではなく、私が自分から関心を持ち、私が興味を持つのです。そして相手に対する愛がないと関心を持つことはできません。子どもや相手に対する愛情が、一方的な期待にならないように少し意識してみましょう。
園児たちの、そして卒園して1年生になる子どもたちの、これからの健やかな育ちに関心、興味を持ち、希望を持ってあたたかく寄り添っていきたいと思います。
2023年2月号
『善悪のバランスと子ども』
子どもはいろいろなことをします。彼らの行為を見ると、私たち大人はすぐにそれが良い行為か悪い行為かを判断して、褒めたり叱ったりします。
叱るときに大切なのは、その行為について伝えるということ。その行為はするべきでないことで、それをもうしないようにと伝えるわけですが、その時に間違っていたのはその行為自体であって、その子自身は悪くも間違ってもいないということです。「なんて悪い子なんでしょう」というような、本人を否定するような表現は避けたいものです。しかし、その子どもの存在を否定するつもりは全くなくても、その行為について伝えるときの態度、雰囲気、言葉(文章や言い方など)から、子どもは自分が否定されていると感じてしまうこともあります。感情的に怒ってしまうとその傾向は強くなります。
『悪さをしない子は悪人になります』(廣井亮一著 新潮新書)という本を読みました。著者は元家庭裁判所調査官でスクールカウンセラーや教育相談、子育て相談などを通して、いわゆる非行少年や犯罪者と関わってきた方。興味深い内容でしたので少し紹介します。
「非行少年、犯罪者の臨床実践を通して痛感していることは、現代の家庭、学校、社会の、子どもの「悪」に対する包容力の欠如です。子どもたちは、強い・弱い、明るい・暗い、早い・遅いという、多様な軸を豊かに生きることによって、「総体としての生身の人間」として成長していきます。そのどの軸が分断され、排除されても、子どもたちはバランスを失ってしまいます。
非行・犯罪は人と人との関係を破壊し、私たちが安心して暮らせる社会を危うくする「悪い行為」ですから、法によって人の行為に規範(ルール)が示されています。しかし、法の理念としてよく言われる「罪を憎んで人を憎まず」の通り、法が制限しているのはあくまでも「行為」に対するものであり、人の内にある「悪」を制限してはいません。悪いことをしなければ、いくら悪いことを考えていても構いません。
しかし、今の社会の非行少年に対する対応を見ると、「非行を憎んで、非行少年を排除しろ」と声を上げているかのようです。それに対して、現代の非行少年が凶悪重大事件をたびたび起こしているのは、人の内にある「悪」が力で抑え込まれて排除されていることの反動のようにも見えます。「悪」を押し潰された少年たちがさまざまな非行・犯罪を起こして、欠如した「悪」の部分を取り戻そうと試みているようにも思われるのです。
非行少年の更生、非行臨床の実践のポイントは、「悪」を排除するのではなく、総体としての生身の少年に「悪」を正しく位置付けることなのです。そうした関わりによって、彼らは「悪」の意味を知り、「悪い行為」を自らコントロールしながら更生していきます。」
どんなものごとも、量が増えすぎたり減りすぎたり、時間や場所を間違ったりすると「悪」になり、同じものごとも中庸というかバランスの中心にあれば「善」となります。子どもは成長発達の中で、「悪」を排除するのでなく、自分の中の「善」と「悪」のバランスをとる術を身につけていく必要があります。そのバランスが取れた時、そこには自然に内なる声としての「良心」のようなものが生まれるのではないでしょうか。「善」と「悪」は一つのものの両面のようなもので、どちらかだけにはならないのです。
子どもの存在を否定せずに、行為の善悪について伝えることは、とても難しいですし、ケースバイケースで、常に模索していく必要があります。自分の中の善悪のバランスを取ることができる、子どもにとって信頼できる大人が子どもの傍らにいると、それは良いお手本になり、子どもの健やかな成長発達を促します。
人やものごとを「悪」と決めつけて、それを非難、攻撃、排除しようとする傾向が強く、「善」、「悪」、「平和」などの意味は曖昧になってきている今日この頃、善悪について考えています。
2023年1月号
『好きなことありますか』
昨年12月の初旬にNHKスペシャル「キラキラムチュー 発達障害と生きる」という番組をたまたま見ました。とてもよい番組で、発達障害を持つ小学校高学年の子どもたちの今の生活やそれまでの成長発達を追った内容でした。小学校の普通学級には通っていないけれど、その子どもたちはとても幸せそうに楽しく暮らしているのです。
彼らの共通点は、好きなことがあるということ。道路や標識が大好きな子どもは、週末にお父さんとドライブするのが好きで、全ての道路標識を熟知しており、どの道を行けばよいかがすぐにわかり、その道路がいつ開通してどの道路と繋がっているかもなどすぐに答えることができます。
幼児期のプラレールからの鉄道が好きな子どもは、今は「乗り鉄」と「撮り鉄」。運転手になるのが夢だったけれど、今は鉄道関係にはいろいろな仕事があることもわかり、鉄道関係の仕事につきたいと考えています。
他にも、ゲーム好きでカードゲームやボードゲームも自分で考えて作り、ゲームのプログラミングもしている子ども、とにかく数字が好きな子どもなど、どの子どもも、興味のないことは続けられないのに、好きなことに関しては、目を輝かして集中してそれに没頭していきます。
成長発達の長期間にわたる調査がこの番組の背景にあり、その調査から、他の子どもと一緒に何かをしたり、同じことをしたり、学校に行ったりができなくても、好きなことをするときの能力はとても高いこと、そのように楽しく暮らしている子どもは、好きな物事が持続していることなどがわかってきたそうです。
その子どもたちの母親も取材を受けており、共通して話していたことは、幼児期の自分の子どもが、他の子どもたちや集団生活に全く馴染めず、何でそうなのか、自分の育て方が悪いのかと悩んだけれど、ある時、自分の子どもに好きなことがあり、それをしているときは、落ち着いて、そしてそれをちゃんと行っていることに気づき、それに寄り添っていこうと、考え方の方向転換をしたというようなことでした。
また、研究者からは、好きなことがあるということは、発達障害を持つ子どもにとってだけでなく、すべての子どもに共通に大切であることが報告されていました。人と違うことを本人も親も教師も受け入れたとき、何かが動き始めるのです。
皆と同じことをそれなりにちゃんとできること、言われたことをちゃんと行えることが、今までの世の中では求められてきたのではないかと思います。そのような人たちが今の社会を作ってきたのです。それは素晴らしいことでしたし、それが求められていた時代背景がありました。しかしそのやり方が行き詰まり、社会のいろいろなところで歪みが出てきていることに、たくさんの心ある人たちは気づき始めています。
好きなことは、自発的に主体的に行うこと、続けていくことができます。そして好きなことを続けていくと、それはそのことを行う能力、才能も育っていきます。その能力は、社会の資本と言ってもよいのではないかと思います。貨幣が生まれる前の世界では、自分の能力と他の人の能力を、物やサービスの交換という形で認め合い支え合っていたのだと思います。鉄道好きの子どもは、鉄道を好きでい続けることによって、自分を見つけ、社会のために役立つ資本を作っているのではないでしょうか。子育て、保育そして教育には、社会の未来のための人的資本を育てるという面もあるのです。
しおん保育園でのさまざまな活動の中で、子どもたちもそこに係る大人たちも、好きなものを見つけることができたらと思います。この子はこれが好きと、大人が勝手に決めつけるのではなく、その子どもの好きなことに寄り添っていけるような大人でありたいと思う新年です。
2022年12月号
『一人ひとりの個性としての光』
「他は己ならず」(タハ、コナラズ)という道元の言葉をご存じでしょうか。随分前ですが、瀬戸内寂聴さんがこれについて話されているのを、たまたま聞きました。およそ以下のような内容でした。
「生きることは愛すること。そして他の人を愛するためには、まず自分のことを愛さなければならない。自分のことを愛し、褒め、受け入れることが大切で、自分を愛することができるゆとりがあってはじめて、他の人を愛することができる。自分のことを愛することができない人は、他の誰かを愛することができない。道元の言葉通り「他は己ならず」で、他人は自分と同じでない。だから人間は面白い。誰かを好きになるのは、その人が自分と同じだから好きになるのではなく、自分と違うから好きになるのだ」
私は仏教徒ではないので、仏教の観点でのこの言葉の意味はよくわかりませんが、文字通り「他の人は自分とは違う」という意味に受け止めることは簡単でしたし、その時の彼女の話も腑に落ちるものでした。
日常の私たちの生活を振り返ってみると、私たちはすぐに他の人が自分と違うことでイライラし、腹を立ててしまいます。自分はできるのに、何故この人はできないのか。自分がこんなに伝えているのに、なぜわからないのか。つまり、その人が自分と同じでないことに腹を立ててしまうのです。
自分が自分自身と向かい合い、ありのままの自分を受け入れて愛することができていないことが、その原因の一つでしょう。自分を愛することができると、その人にはその人ならではの個性が有り、その個性は自分と違うことを感じ、受入れ、そして愛することが始まります。親子、夫婦、家族、職場の同僚、学校の友達、様々な人間とのつながりがありますが、そこで出会う、共に生きる人たちの一人ひとりは、まったく別の「個」として独立した精神性を持っていますし、その人達と暮らす自分自身も一つの「個」として独立した存在です。「個」としての精神性は、その人の持って生まれてきた「光」とも言えると思います。
子どもは成長発達の道を歩んでいますから、少しずついろいろな能力を獲得していきます。今できないことも、その子どもの成長発達の道のりの中で、できるようになるでしょう。親や教師としての自分が、その子どもに「こうあって欲しい」、「こうあるべきだ」という考えを押しつけてしまうと、思い通りにならないことに対して苛立ちを感じてしまいます。その意味でも、その子どもの成長発達について学び、子どもをよく観察することができ、子どもの持つ「光」を感じることができると、その時点でまだできないことを期待したり、できないことにイライラしたりしないですむかもしれません。
自分が関わる人は皆、(子どもでも大人でも)自分とは違う人間。「他は己ならず」ということが他の人と関わるときの基盤となるとよいと思います。そしてその出発点は、自分と向かい合い、自分のありのままの姿を受入れて、自分を愛していくこと。そして、この自分を愛するということは、エゴイスティックで自己中心的になるということとは、真逆です。
冬至の一年で一番暗い時期に毎年やってくるクリスマス。一人ひとりの人間の中に、その人ならではの「光」があることの素晴らしさを感じ、その「光」と暖かく受け入れ、共に歩めたらと思います。
2022年11月号
『触覚の大切さ』
触覚は、自分の外にあるものに直接触る感覚です。私たちの体は皮膚に覆われていますから、皮膚が自分の外にあるものに直接触れるのが触覚です。何に触れるかによって育っていく感覚です。
子どもたちは、生活の中でどんなものに触っているでしょうか。布団、パジャマ、下着、オムツ、シャツ、ズボン、スカート、靴下、水道の水、歯ブラシ、歯磨き粉、コップ…。朝起きてからの子どもの生活を思い出してみるだけでも、かなり多くのものに子どもは触覚を通して直接触れています。その触覚を通して出会うものが、どんな「質」を持っていて、どのような感覚印象を子ども与えているかを一度ふりかえってみてください。子どもの成長発達にプラスになる触覚体験と、そうでないものに気づくことができると思います。
しおん保育園の保育で、木や天然の素材のおもちゃを多く揃えたり、自然の中でたくさん遊んだり、南畑で動物たちと触れ合ったり、布おむつを使うことも、子どもが直接のよい感覚体験ができて、様々な「質」と出会うことがその目的です。それは子どもの健やかな成長発達を促し、自主性を育みます。感覚を通して直接、いろいろなものの「質」と出会うことで、子ども自身の「質」が育っていきます。
触覚は外のものと出会う感覚ですが、外の世界と出会っている自分自身を感じる感覚でもあります。子どもがいつも同じタオルとかぬいぐるみなどを手放さず持っているときや、大人が愛着のある道具を手にして仕事をするときなど、触覚を通して、いつもと同じ「質」を体験すると同時に、自分自身を体験し確かめているのです。それにより安心、安定がもたらされます。同じ物を感じている同じ自分も感じているのです。
そして人と人との直接の肌と肌の触れ合いは、触覚を育むことに大きく関わります。触れてあげることによって、子どもは自分と相手との境界線を感じます。自分の体を自分のものとしていく乳幼児期の子どもにとって、自分の体と外との境界を体験することは、自分の体と出会うだけでなく、最初の自分意識の目覚めにもつながっていきます。また、触ることにより、触った相手だけでなく自分も感じ、触られることにより、触ってくれる相手を感じるだけでなく自分自身も感じています。スキンシップにより安心感が生まれるのはこの両方を感じるからではないかと思います。
人と人との肌を通しての触れ合いは、素晴らしいものですが、とても繊細な面もあります。無理に触ることは相手に、不快感、恐怖感、不安感などを感じさせてしまいます。一方的に触れるのでなく、相手がどう感じているかも意識して、相手が心地よさや温かさを感じるようなやり方で、子どもを抱っこしたり、手をつないだり、わらべ歌などのふれあい遊びをしたりできるとよいと思います。
コロナの影響で直接の触れ合いの難しさが続いていましたが、これからはまた普通の触れ合いができるようになっていくと思います。また、子どもたちだけではなく、IT、AI、VRの現代社会に生きる私たち大人にとっても、リアルな感覚体験は、人間らしく生きていくためにとても大切でないでしょうか。アバターさんとは、握手もハグもできません。
2022年10月号
『栄養摂取の方法』
ありとあらゆるサプリメントが流通しています。私たちはいろいろなコンプレックスを抱えて生きており、気になっていることが改善されるとの宣伝が何故かスマホに押し寄せてきます。そしてそれを購入しても広告のような成果は無かったという経験をお持ちの方は多いかと思います。
最近では、子ども向けのサプリメントも流通し始めています。私が南沢シュタイナー子ども園のクラス担任をしていた頃、そこでシュタイナー教育を学び、仙台でシュタイナー教育を長年実践している虹乃美稀子さんの文章を抜粋して紹介します。
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私のSNSサイトには「子ども用サプリメント」や「子ども用栄養補助食品」の広告が急増し、なんとも言えないやるせなさを感じています。「その悩み、鉄分不足かも。イライラや集中力不足は隠れ貧血が原因?」、「子育ての悩みをこの〇〇サプリで解決!」、「今飲まないと伸びない身長、飲ませてあげる親の優しさ」宣伝文句はこんな感じです。
今の医療では、熱が上がったら薬で下げるといった対症療法に重きがおかれ、原因を考え、自分の力で症状に向かい合って体の声に耳を澄ます、という姿勢が失われてきて、子育てにも同じような考えが浸透してきています。そうした流れにつけ込んで、一儲けしようと子育て市場をねらう企業の思惑も大きいのでしょう。目の前にいる子どものありのままの姿から目をそらし、安易にサプリメントという「薬」に頼らせ依存させようとする広告には、保育者として危険を感じています。
現代の栄養学では栄養素の摂取が大切とされていますが、もう一つ大事なのは、私たち人間は自分の「命」を維持するために植物や動物から「命をいただいている」ということ。「命」に宿るのは生命力で、いのちをいのちとして維持し続ける力です。しなびかけた野菜や、冷凍保存していた野菜と、畑で採ったばかりの野菜とでは、その味や風味だけでなく、栄養にも違いがあるのです。
生命力のあるものを食べて消化するには、自分自身の生命力が必要です。病気で弱っていると消化力も弱まっているので、おかゆやスープが美味しく感じられ、ジャンクフードや冷凍食品が食べやすいのは、生命力が失われていて消化の力を必要とせず、人間が楽できるからです。
消化とは、自分ではない自分以外の「異物」を取り入れて、自分ではない「命」を自分の一部にしていくこと。食べ物を自分の力で噛み砕き、胃で消化し、それを酵素と混ぜて小腸で吸収していきます。自分以外のものを自分自身に取り入れていき、その食べ物に含まれていた生命力も自分のものにしていきます。自分の体に必要な栄養素を「食べる・消化する」ことを通して、食べ物の中から自分で取り出していくのです。そして消化器官も、その消化行為を繰り返すことで十分に働くようになります。楽をすると、生命力は活性化できないのです。
サプリメントという機械的に精製された単一の栄養を直接口に放り込んでしまえば、消化器官は「自分で栄養を取り出す」ことをしなくなります。生命力の弱った子どもは、また様々な症候群で大人にSOSを発してくるでしょう。私たちは、そうした子どもたちに、なおサプリや薬を投与していくことで解決しようとするのでしょうか。何が子どもたちを真の意味で守るのか、現代に生きる大人は子どもたちが企業利益に搾取されないようによく目を光らせていなくてはなりません。
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この文章からも、何故しおん保育園で「食」を大切にしているかを感じていただけると思います。しおん保育園の食事を通して、子どもたちは「命」をいただき、そこから必要な栄養を自分で取り出して摂取し、自分の生命力を養い、健やかに育っています。
引用した原文を読みたい方はこちら
2022年9月号
『子どもの寝顔』
私たちは朝起きて、昼間の生活を送り、夜に眠ります。眠っているとき、意識は無くなり、目覚めると日常の「わたし」という意識が活動し始めます。起きている日常の「わたし」意識があるときは、覚醒している状態で、眠っているときは無意識で覚醒していない、文字通り眠っている状態です。また、覚醒しているときは緊張、収縮、集中している状態で、眠っているときは弛緩、拡散、緩んでいる状態です。
二つの状態、収縮と弛緩が繰り返されていくと、そこに「リズム」が生まれます。リズムの中で最も身近なものは「呼吸」です。息を吸うときは緊張し覚醒し、息を吐くときは、緩み眠る方に向かいます。呼吸の面白いところの一つは、呼吸が普通にうまく営まれているとき、私たちは呼吸を意識していないないということ。逆に、呼吸のリズムが乱れると、呼吸していることを意識するのです。そして呼吸のリズムがうまく流れているとき、私たちは落ち着き、安心します。
呼吸や心拍などの体と結びついたリズムがうまく機能しているとき、私たちは調子がよい、機嫌がよい状態にあります。体の調子がよいとき、体という「家」の中での生活、つまり、心や精神の営みがうまくいくのです。そして、生活にフォルムがあり、リズムがあって繰り返されていくと、それは子どもにも大人にも、安定、安心、落ち着きをもたらします。
生活のリズムは時間割ではないので、何時何分に始めるとか、何分で終わりにするということではありません。たとえば、子どもが夜に寝るまでに行うことを、いつも同じ順番で、それぞれの活動を同じ場所で、同じように出来るようにしてみましょう。先ずその子どもにあった生活のリズムを考えて、それを3日間続けます。3日坊主と言いますが、3日間は続けるには、はっきりした意志が必要です。でも3日間続けてみると4日目以降、それまでよりも意識しなくても行えるようになるでしょう。そして1週間続くと、かなり普通に行えるようになるのではないかと思います。そして4週間続けることが出来たら、それは既に習慣になっています。
早寝、早起きといった人間の生活の基本も、いつも同じように繰り返すリズムにすることができると、子どもを育む大きな力となります。体を作っている乳幼児期の子どもには、十分な睡眠が必要です。そして早く寝ることもとても大切。睡眠と覚醒のよいリズムを作ってあげることが、子どもの健やかな体づくりに働きかけるのです。
テレビ、ゲーム、スマホ、タブレットといったメディアからの音や映像は、子どもがよい眠りに入っていくことを妨げます。子どもが寝る前のしばらくの時間、その刺激から子どもを解放してあげてください。またすぐに寝入ることのできない子どもも、寝る時間になったら布団の中で目を閉じて静かに過ごすことを習慣に出来るとよいです。すぐ寝入らない子どもを急いで寝付かせようとしてもうまくいきません。
子どもが眠ったら、ぜひ毎晩1〜2分、子どもの寝顔を静かに見る時間をつくってみましょう。すやすやと眠っている子どもの寝顔を、静かにゆっくりと眺めることによって、私たちの一日の仕事の疲れやストレスも、子育ての大変さも、忘れることができるかもしれません。そして、この子が健やかに育っていくことをサポートしていくという大切な役割を再確認できると思います。
2022年8月号
『一人で生きていく能力を育む』
子どもは生まれて成人するまでに、二つの道を歩んでいきます。それは「人間になっていく道」と「自分になっていく道」。この両方の道をしっかり歩んでいくことができると、地に足をしっかりとおろした人間、そして自分を肯定し自発的に行動できる人間に育っていきます。それは一人で生きて行ける人間の基盤を育むことでもあります。
人は家庭や社会で他の人たちと一緒に生きています。他の人のために何かをしたり、助けてもらったり、一人でできないことが皆と一緒にできたりというプラス面がたくさんあります。しかし、他の人からマイナスの影響を受けたり、社会の中でストレスを感じたりすることも日常茶飯事。集団の一員として生きることは、もちろん必要で大切ですが、そのためには一人ひとりが一人で生きていくことができることが必要です。一人で生きていく能力とは、自発的に感じ、考え、行うことができるということです。
乳幼児期の子どもは、体を育んでいき、自分の体を自分でコントロールできるようになっていきます。自分で食べ、排泄も管理できるようになり、体を清潔に保つことなど、自分のことを自分でする能力も身につけていきます。そして大人になるまでには、人間が生きていくために必要な掃除、洗濯、料理などのいわゆる家事仕事も、身につけていく必要があります。
一人でも生きていける能力は、日常生活だけに必要なのではなく、災害、戦争、パンデミックなどが起きた際に、生き残っていくためにも大切で、やってもらうのを待つのではなく、自発的に活動することが、家族や身近な人たちを助ける力となります。
子どもの自発性の発達を邪魔するものがあります。それは子どもにお伺いを立て、言いなりになんでもやってあげること。過剰なサービスと言ってもいいかと思います。子どもが自分でできることを自分で行える時間や空間を整えることが大人の役割で、子どもが自発性を発揮できるような接し方が必要です。
メディア機器に囲まれている現代の子どもは、スクリーンやスピーカーから与えられる情報に反応し従っていくことを学び、指示されたから、与えられたら、言われたからする、という行動パターンを身についていきます。ゲームをするということは、何をしたらよいかが外から与えられて、与えられたことに瞬時に対応していくことの繰り返し。ゲームは子どもに楽をさせてしまうサービスでもあるのです。自分から行っているように感じてしまいますが、実は自発的に何もしなくてよいのです。
例えば、年長合宿や南畑牧場で遊んでいる子どもは、外から与えられた遊びをするのではなく、大人からみると面倒なことでも、自発的にわざわざ真剣に、遊びを繰り広げ、それを楽しんでいます。自分でやってみようとする意志を育てるためには、メディアを通した間接的な体験でなく、感覚を通した直接の体験をたくさんすることこそが必要。ITメディア機器は、とても便利である分、自分で感じ、考え、行うチャンスを奪ってしまいます。「教育は不便なるがよし」なのです。これからの社会では、不便な中でも、ちゃんと人間らしく一人でも生きていける能力が、求められているのではないでしょうか。
2022年7月号
『天使のお仕事』
天使は、どこにいるのでしょうか。天使は私たち一人ひとりといつも一緒にいます。でも普通は天使の姿を見ることはできません。
一人ひとりの子どものそばには、その子どもを守り導いてくださるその子の天使がいます。でも子どものところにだけに、天使がいるのではありません。大人のところにも天使はいます。お母さん、お父さん、保育園の先生のそばにも、その人を導いていく天使がいるのです。では天使は、いったいどんなお仕事をしているのでしょうか?
子どもの天使のお仕事は、その子どもといつも一緒にいること。朝起きる時も、保育園にいる時も、家にいる時も、その子どもと一緒にいるのです。でも天使はとても恥ずかしがり屋さんなので、気づかれないように、静かにそっと、そこにいるのです。では、天使は一緒にいて何をしているのでしょうか。
すぐ近くにいて、その子どもを優しく見守っているのです。ちゃんと起きられるかな、ご飯を美味しく食べているかな、保育園にはちゃんと行けるかな、お友達といっしょに楽しく遊んでいるかな。年長の子どもが家族と離れても合宿で楽しく過ごしているかな。そんなことを、優しく見守っているのです。
でもよいことや楽しいことだけを、見ているのではありません。友達と喧嘩をしていることも、泣いていることも、お漏らししてしまったことも、ご飯を残してしまったことも、お母さんに怒られていることも、いたずらをしていることも、嘘をついてしまったことも、みんな優しく見ているのです。
でも、天使は一緒にいて、見ているだけはありません。時々、子どもたちに、どうしたらよいかを教えてくれるのです。よいことをしようとするとき、どのようにしたらよいかを、天使は私たちに教えてくれるのです。でも、天使が教えてくれたことに、私たちは気がつきません。
天使の他の大切なお仕事は、それはお昼寝のときや夜に眠るとき、眠りの世界に連れて行ってあげること。そして目覚めるとき、眠りの世界からこの世界に連れて来てくれること。これは天使にしかできない、とても大切なお仕事です。でも私たちが眠るときや起きるとき、天使が手伝ってくれていることには、私たちは気づきません。天使は恥ずかしがり屋さんですから、気づかれないようにお仕事をしているのです。
そして天使の大切なお仕事はもう一つあります。それは子どもの様子を、神様にお伝えすること。その子がどのように過ごしたか、どんなことがあったかを、天使は神様にお話しします。そうすると、神様は今度その子どもにどんなことを教えてあげたらいいかを、天使に教えてくれるのです。
大人の天使も、子どもの天使と同じようにいつも近くにいますが、子どもの天使とは違います。大人のことは、いつもは放っておくのです。でも、大人が自分でやっているのを、優しく見守ってくれていて、本当に困っているとき、大切なときには、そっと気づかれないように、どうしたらよいかを教えてくれるのです。
普通は、天使の姿は見えません。天使の声も聴こえません。でも耳を澄ましてみると天使の声が聴こえることがあるかもしれません。天使は恥ずかしがり屋さんですから、きっと小さい、きれいな声でお話ししているかもしれません。
子どもや大人自身の天使の声に耳を澄ましてみませんか。
(以前、礼拝の時間に子どもたちにしたお話です)
2022年6月号
『心地よい家としての身体』
人間の身体はとても精妙に作られています。神の意志とか宇宙の叡智によるものと言えるかもしれません。呼吸や心臓の鼓動をはじめとした身体の営みがうまく機能しているとき、私たちは身体の営みを感じないでいられます。よい状態でなくなったとき、バランスが崩れた時に、身体のことを感じるのです。例えば、喉が渇いた時に、喉が渇いたことを感じ、喉が潤っている時には、喉が潤っていることは感じなくてよいのです。また、歩く、走る、字を書く、手仕事、楽器の演奏などするときに、どのように身体を動かすかを意識してしまうと逆にうまくいかないことがあります。身についていることは、無意識にちゃんとできるのです。
身体の営みがうまくいっているとき、私たちは安心、安定していて、身体と結びついた「心地よさ」を感じます。身体の営みに対して覚醒していない状態におり、心や精神は身体から離れて、自由に活動することができるのです。
乳幼児の成長発達にとって、この身体と結びついた「心地よさ」はとても大切。遺伝によっていただいた身体という「家」に、その家の住人である「自我」が結びついていく時期である乳幼児期には、自分の「家」を心地よいと感じることは、健やかな身体を育ちの基盤となります。
誕生すると、子どもの自我は生まれたての小さな赤ちゃんの体に結びつき始めます。段階を追って身体諸器官はその機能とその形態を獲得していきます。赤ちゃんにとって身体は、自分の思い通りにならない重い存在で、最初は自分のものになっていませんが、だんだんと自分で自分の身体をコントロールできるようになり、いろいろな運動能力を獲得していきます。この身体と自我が結びついていくプロセスがうまくいくと、自分の体と心地よく結びつけるのです。癇癪や機嫌の悪さなどは、自分と自分の身体の結びつきの心地悪さによります。そして、この結びつきをよいものにするために必要なのが「リズム」です。
生きものには、その生きもの独自のリズムがあり、そのリズムは物質と精神を結びつけます。人間の場合、物質としての身体に精神としての自我を結びつけます。人間のリズムの代表的なものは心臓の鼓動と呼吸、そして子どもたちの生活のリズムや繰り返しです。体内のリズムが整っていくことにより、子どもの自我は身体と結びついていきます。そして生活の中のリズムと繰り返しはそれを促します。
生活にフォルムとリズムがあって繰り返されていくと、子どもは自分の生活している周りの世界に安心感、信頼感を持ちます。いつも同じであることは子どもたちを落ち着かせ、安心させます。そしていつも同じという外的な持続性を感じる体験は、「私はいつも私である」という内的持続性、精神的首尾一貫性を育てるのです。逆に、リズムや繰り返しがなく、刺激の強い覚醒させるようなものばかりの生活が続くと、自分と身体の結びつきは弱くなり、「心地よさ」を感じることは難しくなってしまいます。
自分の身体という「家」を「心地よい」と感じることは、精神的にも自分が自分であることを「心地よい」と感じることにつながっていきます。自分が自分であることを当たり前に「心地よく」感じることができることは、大人も子どもも、その人の人生に大きな意味を持ちます。
2022年5月号
『これからの時代にどう備えるか』
インターネット・オブ・シングス(IoT 物のインターネット)がさらに先へ進み、既にインターネット・オブ・ビヘイビア(IoB 行動のインターネット)あるいはインターネット・オブ・ボディ(IoB 身体のインターネット)の時代が始まっています。
インターネットを通して、家の中の家電などをコントロールするのが「物のインターネット」。インターネットを通して人間の行動や身体をコントロールするのが「行動や身体のインターネット」です。位置情報、ネットショップや店舗での電子マネーやポイントでの購買、SpotifyやNetflixなどの音楽や映画のサブスクリプションやYouTubeでの視聴などなど。これらはすべて記録され、その人の行動の傾向がAIによって予測され、その人がしたいこと、買いたいもの、視聴したいもの情報が送られてきます。自分で考えなくても自分のすることを決めてもらえる世界が既に始まっており、便利になったと感じている人もいるかと思います。将来は、AIによる私に関する情報からの予測が、直接私の心や身体に届き、私の思考や行動も気がつかないうちにコントロールされているような時代になるのかもしれません。
Society5.0、ムーンショット目標といった、未来社会の計画が内閣府のホームページにも掲載されています。VR空間(仮想空間)でアバターを介していろいろな体験ができる、普通の実社会で出来ないことが出来る未来の素晴らしい世界が予定されていて、そこに向かって社会は確実に動いています。スマートシティ計画も進んでいます。それらのために、4Gは5Gに、そして更に先へと移動通信システムも進んでいき、それによる人体への電磁波の影響は深まっていきそうです。
そういった未来の世界に順応していく人、それを喜んで体験していく人を、今の教育や社会は育てようとしているように感じます。30年後の社会、今の年長児が36歳になった時の社会は、どうなっているのでしょうか。幸せな暮らしができる世界なのでしょうか。
子どもたちには、これからのメタバースの世界において、本当に人間らしく生きていくことのできる人に、育っていってほしいと思います。そのために何が必要かを考えてみると、
乳幼児期からIT機器の中で暮らし、ゲームばかりしたり、YouTubeばかり見たりするのではなく、人間らしい普通の生活を楽しんでいくことなのだと思います。今の社会からIT機器を無くすことはできず、共存していくことは必要です。しかし、ヴァーチャルな体験ではなく、直接感覚を通したリアルな体験こそが、子どもが人間らしく育っていくためには、本当に大切なのです。
南畑牧場やおひさま農園、さまざまな芸術活動や体操や手仕事、美味しい無添加の食事、職員によるさまざまな手づくりのもの、縦割り保育での異年齢の子どもたちとのふれあいなどのしおん保育園ならではの活動は、これからの社会の中で生きていく、子どもたちにこそ必要なことなのだと思います。触覚、視覚、聴覚、味覚、嗅覚により、メディアを介さないで直接、人間や動植物などを、感じ体験することは、それぞれの生命の「質」を感じるということ。「質」との出会いによって、子ども自身の目に見えない「質」、「生命」が育っていきます。
ヴァーチャルな世界の中では「生命」と出会うことはありません。アバターもロボットも生まれることも成長することも死ぬこともできない、生命を持たない物です。それぞれの子どもが健やかに育っていくために、私たち大人自身も、体、心、精神的に健康で過ごしていくために、何が大切か、しっかり考えて実践していきましょう。
2022年4月号
『子どもの成長に寄り添うこと』
ちょっと寒い四月でしたが、やっと春らしくなってきました。4月の保育園の風物詩、新入園児の泣き声も少しずつ少なくなってきました。だんだんと保育園での生活に慣れ、ここが自分の家のようなところ、他の子どもたちや保育士たちや他の職員たちも家族のように感じるようになっていきます。
4月6日は小学校の入学式、先月卒園した子どもたちが、式の後に保育園に寄ってくれました。入学式でおしゃれしてピカピカのランドセルは背負っているけれど、まだ、保育園児の顔や姿のまま。これからどのように成長していくか、とても楽しみです。
そして3月の小学校の卒業式の後、そして中学校の入学式の後にも、卒園児たちが来てくれました。小学校での6年間でこんなに成長するのだと感じることのできる素敵な時間です。どの子も保育園児だった時の雰囲気や面影は残っていますが、12歳のその姿は、在園中には想像することはできません。ああ、こんな感じに育ったんだ、と驚きがあります。これから大人に向けてどのように育っていくのか、本当に楽しみです。
子どもたちの成長を直接感じて寄り添えることは私にとって大きな喜びです。保育、教育の仕事をつづけている理由です。
その子の未来の姿を先に知ることはできません。子育て、保育、教育の大変なところであり、面白いところです。野菜の種の袋には、よく育ったその野菜の写真や絵があり、そのように育つものだと納得して、私たちは種をまき、育てていきます。しかし、生まれた赤ちゃんがどのような三歳児になるのか、どのような小学生になるのか、大人になるのかを、私たちは先に知ることはできないのです。神のみぞ知る領域です。
面白いことに、子ども自身も、自分がどのように育っていくのかを知りません。でも、自分はどのように育っていくのか、どのような人生を送るのか、どのような課題を持って生まれてきたのか、といったことを無意識には知っているのでないかと、私は思うのです。
その子どもに関心を持ち、あたたかく、よく観察すること。ありのまま「今の姿」を、好き嫌い、良い悪い、正しいか誤りか、皆と同じか違うかなどの、感情や判断抜きに、受け入れて肯定すること。そうしていくと、その子が生まれながらに持っている「どのように育っていきたいか」という、その子自身も自覚していない意志のようなものを、感じることができるかもしれません。その子に関わる大人が、その子のためにと善意や愛情から行うことでも、子どもの自ら育っていこうという意志と合致しないと、空回りになってしまいますし、子どもの領域への侵入、介入、お節介になってしまい、うまくいかないことが多いのです。
子どもの存在に耳を澄ましてみましょう。その子がどう育ちたいかが、それによってわかるわけではありません。しかし、少しですが、子どもの育っていこうという意志に気づくことができるようになるかもしれません。それによって、その子どもの本来の成長に、寄り添えるのでないかと思います。耳を澄ます前提となるのは、生活や保育の中の静けさです。