2024年3月号
『子どもが幸せになる方法』
子どもの年齢が低いほど、言葉は伝わりにくいものです。言葉は抽象的。言葉で伝えるよりも、目の前で行う方が子どもには伝わります。目の前で誰が行っているのを見ると、乳幼児は同じことをし始めます。子どもは生まれた時から無意識に模倣する能力を持っているのです。
赤ちゃんが日本人の家庭で育つと日本語を話し始めます。しかし日本人の赤ちゃんでも、何らかの理由で一歳までの時期をドイツ人の家庭で過ごしたとしたら、その赤ちゃんはその家庭で話されているドイツ語を話すようになるでしょう。実際にその場所で耳にする言葉を話せるように身体が形成されていき、一歳になって歩き始めて言葉が出始めると、一歳までに周りで話されていた言葉を話し始めるのです。
実際に話す言葉も模倣されるわけですが、その言葉が話せる身体の形成にも模倣衝動が影響します。周りにいる人間の行為を見て、それをお手本として真似して行為するだけではなく、その行為を無意識に行える身体も作っているのが乳幼児期の子どもです。
人間の愚かな行為を見ると、それがお手本となり、その行為を真似して行い、その行為を当たり前に行える脳も含めた身体を作ることになってしまいます。逆に周りの人間が優しく振る舞っていて、優しく接してもらった子どもは、その真似をして人に対して優しく接することを始めますし、自然に人に対して優しく接することのできる身体を作っていくことになります。
子どもに、人に対して優しい人になってほしくて、どうしたら子どもが優しくなるか、その方法をあれこれ考えて、優しいとは何か、優しくしないとどうなるか、優しくされなかったら相手はどう感じるかといったことを、言葉で伝えても、それによってその子どもが優しくなれるかは、何とも言えません。
子どもに優しくなってほしいのであれば、どうしたらいいでしょうか。子どもが優しくなる方法を考えたり、言葉による説明をしたりするのではない、よい方法があります。それは、子どもの傍らにいる私たち大人一人ひとりが、人に対して優しい人であるということ。そのことがお手本となり、子どもはそれを模倣して、人に対して優しく接し始めます。そして人に対して優しく行為できる身体を育んでいくのです。
子どもに幸せになって欲しかったら、私たち自身が幸せであればよいのです(言うのは簡単ですが)。幸せに生活し、仕事してる大人(親も保育士も他の人でも)と出会うことができたら、子どもは幸せな人間に育っていくことでしょう。
そのような幸せな人のたくさんいる保育園に少しでも近づけるよう滝山しおん保育園では保育をしていますが、子育てや保育は人間対人間の営みなので、いつもうまくいくわけではありません。でもその中で育ち、卒園していく子どもたちが、優しく、幸せな人間に育ってくれたかな、これからもっとそう育っていったらいいな、などと思いめぐらしている3月です。
2024年2月号
『色眼鏡を外したら見えてくるもの』
「この子は〇〇だから」「〇〇さんは、いつもこうなのよね」などと、私たちは、無意識のうちに、子どもに対して、家族や同僚など共に生活している人たちに対して、いろいろな先入観を持っています。
人間の行動や思考、感情は、一人ひとり違っていて、その人ならではの傾向があります。
それはその人の個性、気質の様なもので、その傾向を持っているのは事実ですが、それを、「この人はいつもこう」と決めつけてしまうことがよく起こります。「あの人はB型だから」とか「あの人は乙女座だから」といったこともその一つかもしれません。
特に子どもの場合は、成長発達のプロセスの中にいますから、本当は日々、変化し続けているはずなのに、決めつけてしまうことによって、その変化に気がつくことができなくなってしまいます。
最近はあまり「レッテルを貼る」という言葉は使わなくなっていますが、「レッテル」「ラベル」に書かれた情報だけしか受け取らず、中身は見ずに、その情報で中身を決めつけてしまうということは、簡単に起こります。特に相手が人間の場合、それが子どもであっても大人であっても、レッテルを貼ること、先入観、固定概念を持つことによって、本当のその人自身に出会うことができなくなってしまいます。
子育て、保育、教育の場では、その子どもの成長発達をしっかりと観察し、その存在に耳を澄ますことが不可欠です。子どもを観察すること、子どもの存在に耳を澄ますことの前提になることは、その子どもに興味、関心を持つということ。興味を持つ、関心を持つという行為は、本来自分の意志を伴なっていて自主的で自発的です。そして興味・関心を持つということの原点となるのは、その子どもに対する愛。愛がないと興味、関心は生まれず、無関心になってしまいます。
その人に対する先入観、固定概念が強くなると、その色眼鏡を通してその人を見ることになり、色眼鏡で見えるその人をその人そのものだと思い込んでしまいます。そしてその時には、実はその人そのものには無関心になっているのです。そして色眼鏡に映った姿としてのその人にどんなにアプローチしても、その人そのものではないですから、うまく関わることはできないのです。
先入観、固定概念にとらわれず、色眼鏡もつけずに、目の前にいる子どものありのままの姿を、事実としての今の子どもの姿をよく観察していくことによって、ラベルではなく、その子どもの中身、目に見えない心の状態にも気がつける可能性が出てくると思います。事実に即した行為は、良い結果を導いていきます。
人に対してだけでなく、自然界、世の中で起こっていること全てに対しても、溢れる情報によっていつの間にかかけてしまっている色眼鏡を外して、事実・真実を見つけていきたいものです。
2024年1月号
『人間は未完成だから面白い』
「この子は〇〇だから」「〇〇さんは、いつもこうなのよね」などと、私たちは、無意識のうちに、子どもに対して、家族や同僚など共に生活している人たちに対して、いろいろな先入観を持っています。
人間の行動や思考、感情は、一人ひとり違っていて、その人ならではの傾向があります。
それはその人の個性、気質の様なもので、その傾向を持っているのは事実ですが、それを、「この人はいつもこう」と決めつけてしまうことがよく起こります。「あの人はB型だから」とか「あの人は乙女座だから」といったこともその一つかもしれません。
特に子どもの場合は、成長発達のプロセスの中にいますから、本当は日々、変化し続けているはずなのに、決めつけてしまうことによって、その変化に気がつくことができなくなってしまいます。
最近はあまり「レッテルを貼る」という言葉は使わなくなっていますが、「レッテル」「ラベル」に書かれた情報だけしか受け取らず、中身は見ずに、その情報で中身を決めつけてしまうということは、簡単に起こります。特に相手が人間の場合、それが子どもであっても大人であっても、レッテルを貼ること、先入観、固定概念を持つことによって、本当のその人自身に出会うことができなくなってしまいます。
子育て、保育、教育の場では、その子どもの成長発達をしっかりと観察し、その存在に耳を澄ますことが不可欠です。子どもを観察すること、子どもの存在に耳を澄ますことの前提になることは、その子どもに興味、関心を持つということ。興味を持つ、関心を持つという行為は、本来自分の意志を伴なっていて自主的で自発的です。そして興味・関心を持つということの原点となるのは、その子どもに対する愛。愛がないと興味、関心は生まれず、無関心になってしまいます。
その人に対する先入観、固定概念が強くなると、その色眼鏡を通してその人を見ることになり、色眼鏡で見えるその人をその人そのものだと思い込んでしまいます。そしてその時には、実はその人そのものには無関心になっているのです。そして色眼鏡に映った姿としてのその人にどんなにアプローチしても、その人そのものではないですから、うまく関わることはできないのです。
先入観、固定概念にとらわれず、色眼鏡もつけずに、目の前にいる子どものありのままの姿を、事実としての今の子どもの姿をよく観察していくことによって、ラベルではなく、その子どもの中身、目に見えない心の状態にも気がつける可能性が出てくると思います。事実に即した行為は、良い結果を導いていきます。
人に対してだけでなく、自然界、世の中で起こっていること全てに対しても、溢れる情報によっていつの間にかかけてしまっている色眼鏡を外して、事実・真実を見つけていきたいものです。
2023年12月号
『わからないから面白い』
人間は生まれてからずっと学び続けている存在です。まずは人間としての直立の姿勢や二本足での歩行、話すこと、そして考えることも学んでいきます。乳幼児期は人間として生きていくために必要のあることを身につけ、体を通して学ぶことによって「人間になっていく」のです。その際、これを身につけたいとか、これを学ばなければいけないというような意識を持つことはありません。生活の中で、周りにいる大人などの人間の営みを見て、体験して、それを無意識に真似して、身につけていきます。私たち大人は、子どもがどのような人間になっていくかのお手本です。
そして学校に行くと、頭を使って学ぶことが始まります。学校は学ぶ場所であり、大学でも、資格取得のためにも、職場や社会の中でも、私たちは学び続け、学ぶことが必要だと誰もが当たり前に考えています。学ぶことによって、この社会で生きていくために必要な安心感のようなものを得ようとしているのかもしれません。学校教育で「学ぶ」ということは、必要な既存の正しい知識を正確に理解し覚えることで、与えられた問いに対して正しくし答えられるように学ぶことが要求されます。そしてその繰り返しの中で、自分は知っている、「わかっている」と思い込んでいきます。
しかし世の中には、自然界には、人間の中にも、自分の中にも「わからないこと」がたくさん! 「わかっていること」(既存の知識)は、実はそんなに多くなく、「わからないこと」の方が無尽蔵にあるのです。そして既存の正しい知識は、実は間違いであることもあり、新しい研究や発見などによって訂正され続けていきます。
私たちは「わからないこと」ばかりの中で、知らないこととの関わりの中で、暮らしていることを自覚している必要があるのです。「わからない」は、私たちを不安にし、自分が無能であると感じさせることもありますが、「わからない」があるからこそ、学ぼうとする衝動を自発的に持つことができます。「わからない」が、学ぶ機会を与えてくれるのです。
今の自分自身を見てみると、このような人間になることを以前から思い描いた人は、おそらくいないのではないかと思います。その子どもがどのように成長していくのか、どんな人になっていくかが「わからない」からこそ、その子どもに関心を持ち、その子どものことを学んでいきたいと思うことができます。それは子どもだけでなく、共に生きる人たち、そして自分自身にも当てはまります。
「わからない」状態が悪いと考えたり、どうにか「わかろう」ともがくのではなく、「わからない」状態を、「問い」として心の片隅に持ちながら生活していくと、ふと「わかる」瞬間が訪れたりもします。人間は「わからない」から面白いのです。たくさんの「わからない」との生活を楽しみたいものです。
2023年11月号
『「しおんならでは」のもの』
毎年秋は、新年度の入所のための見学の希望が増えます。見学者の案内は通常園長の私が対応しています。園舎内のツアーをしながら、滝山しおん保育園についていろいろお話しします。各クラスの定員や開所時間、早番遅番や延長保育、法人の活動などの基本的な情報の他に、「しおんならでは」の保育内容や、それをなぜそうしているかについて、短くお話ししていきます。
四角い教室のような保育室が無い、縦割りで園全体が大家族のような雰囲気、給食は日本の伝統食で無添加手作り、畑で給食の野菜を育てている、布おむつ、礼拝の時間、山羊や鶏たちがいる南畑牧場、二泊三日の年長児合宿、保護者も一緒に楽しむレクリエーション大会のような運動会やお祭り、などなど。
他の保育園を先に見学している方は、ずいぶんびっくりされますが、遊んでいる子どもたちや職員たちの雰囲気、園舎全体の雰囲気などを共感も持ってくださる方も多くいらっしゃいます。その中からご縁があって入園する子どもがいるといいなと思っています。
いろいろな活動の中で、行事には「しおんならでは」の部分がとても多くあります。先月は二つの大きな行事、運動会と秋祭りがありました。どちらも天気に恵まれて開催できました。
運動会では、保護者の皆さんが子どもたちと一緒に楽しんでいらっしゃる笑顔がたくさん。子どもたちからも「運動会、楽しかったね!」との声が翌週の保育の中で多く聞こえてきました。また、たくさんの卒園児たちの参加も嬉しいことです。子どもの成長発達に寄り添えることの素晴らしさを感じることのできる時間です。
今年も竹登りに取り組む年長児たちの姿がありました。年長児一人ひとりの個性が輝いた素晴らしい竹登りでした。よくスポーツ選手が「感動を与えたい」というようなことを言いますが、いつも違和感を持ちます。「感動」は「与える」ものではなく、「する」もの。年長児たちが竹を登っている姿を見て「感動した」人は多かったのだと思います。もちろん年長児たちは観ている人たちを「感動させよう」とは、全く思っていません。
秋祭りも良いお天気のなか、秋の「しおんならでは」のいろいろな体験ができたと思います。美味しもの、美しいもの、楽しいものがたくさんでした。販売や片付けなども含め、保護者の皆さんにたくさん手伝っていただき感謝です。
そして秋の遠足も終え、「しおんならでは」クリスマスへ向かっての活動が始まります。
2023年10月号
『30年後の君たちは?』
先月の私の誕生日は、園児たちにもお祝いしてもらいました。園長先生になってよかったと感じるひと時です。
「何歳になったの?」と聞かれ、昨年が還暦だったので、「1歳!」と答えると、すぐに皆が「えーっ!」と対応。「じゃあ、11歳?」「ちがう、ちがう」「21歳?」「ちがう、ちがう」そして31、41と続き、「51歳?」「ちがう、ちがう」さあ、次だと思ったら、なんと「101歳?」。なぜか急に歳を取らされました!
他にもいろいろな質問が。「好きな花は何ですか?」、「食べ物は何が好きですか?」そしてなんと「大きくなったら何になりたいですか?」61歳は、これからどう大きくなるのでしょう?
なんて答えようかと一瞬考えましたが、こう答えました。「大きくなったら、お母さんやお父さんになった君たちに会いたいな」子どもたちはキョトンとしていましたが。
君たちが働き盛りの30歳代になるのは30年後で、私は91歳。さあ、30代の君たちに、会えるかどうか。でも、それを励みにしようかと、思いました。
でも、30年後の世の中はどうなっているのでしょうか? 昨年の5月号の園だよりにも書きましたが、これからは加速度をつけて人間とAIの境界線がどんどんなくなっていき、ヴァーチャルな世界、メタバースの世界が当たり前の生活になっていくのでしょう。2025年に開催される大阪万博は30年後の世界の方向性を具体的に示すようなものになるのかと思います。
人間が人間らしく、ちゃんと地に足をつけて暮らして行くことは、難しくなってしまうのでしょうか? 未来がどうなるのかはわかりませんが、企業や国がその方向に進んでいるのは明らかなのだと思います。
滝山しおん保育園の子どもたちが、南畑牧場で、おひさま農園で、毎日の保育の中で、自然や人間に直接たくさん接して、手足を動かして、造形をしたり、陶芸をしたり、竹登りをしたり、刺繍や料理をしたり、オイリュトミーをしたりライアーを弾いたり、虫や蛙を捕まえたり、畑で採れた野菜を食べたりして行くことは、未来の世界の中で、自分らしさや人間らしさを失わないで生きて行くための、目に見えない力、基盤を育てて行くことにつながっています。
先日、滝山しおん保育園の卒園児(小中学生)合宿がありました。金曜日は雨だったので園舎内にテントを張って泊まり、土曜日は南畑で楽しく過ごしました。それぞれに素直に育っている58人の子どもたちに再会して、君たちなら大人になっても、自分らしく、人間らしく生きて行くことができそうだな、と感じることができて嬉しくなりました。
2023年9月号
『「子離れ」と「親離れ」』
私たちの記憶はいつから始まるのでしょう。皆さんの思い出せる一番古い記憶はいつごろでしょうか。一般には三歳くらいから記憶が始まると言われています。三歳というと、ちょうど反抗期やイヤイヤ期が終わるころで、自分意識の最初の目覚めの時期。自分のことを「わたし」「ぼく」という一人称で呼べるようになります。それまでは「たーくんはね」「みっちゃんはね」と、子どもの文章の主語は、周りの人から呼ばれる自分の名前です。
イヤイヤ期に子どもは、「いや」「だめ」「しない」と、ぶつかり抵抗することで自分を確認しています。生まれた時には真っ暗だった意識は少しずつ明るくなり、その明るくなってきた意識のことを「私」と感じるのが、最初の自我の覚醒です。そしてそこから思い出せる記憶が始まります。
自分の意識と結びついた三歳頃から蓄積されていった記憶は、今の私たち大人の自分の意識の元となっています。そしてこの自分意識は自分だけのもの。自分だけの内的な領域である「私」そのものです。
では、思い出すことができない、赤ちゃんから反抗期までに体験したことを、私たちは忘れてしまったのでしょうか? そうではなく、三歳までの子どもが生活の中で体験は、自分の身体に刻み込まれているのです。意識的に思い出すことはできませんが、忘れることもできません。三歳までの子どもが生活のすべては、子どもの身体と結びついた無意識の中でずっと生き続けるので、その時期をどう過ごすかは、その人の一生に影響を及ぼします。
三歳以降の子どもの自分意識は、他の人から切り離された、孤立した自分だけのもの。小学生や中学生の頃を思い出してみてください。当時の自分が何を感じて何を考えていたかを、自分の親はほとんど理解していなかったことは明らかでしょう。自分だけの「私」という内的領域がしっかり育っていくことが、子どもの成長発達には不可欠です。そのためには、親や教師は、子どもの「私」という領域に介入、侵入しすぎないことが大切。子どもも大人も、自分が自分でいられる領域、心地よい空間や時間が必要なのです。
子どもの「私」を受け入れ、子どもの「私」がどのように育っていきたいのかに、耳を澄ましていきましょう。子どもの自分の領域を認めて守ってあげること、余計な介入侵入をしないで愛を持って見守ることが、親にとっての「子離れ」で、三歳頃から少しずつ「親離れ」していった結果が、今の私たちの自分意識なのです。
一人ひとりまったく異なる、その人ならではの「私」の光が輝き育っていることが感じられるような、風通しや見通しがよく、静けさのある心地よい生活が送れたらと思います。
2023年8月号
『寝る子は遊ぶ』
滝山しおん保育園の子どもたちは、本当によく遊びます。よく遊ぶことのできるのは、その子どもが体も心も精神的にも健康なよい状態である証拠。子どもたちは自発的に遊び始め、遊びに没頭して、真剣に遊びます。でもそんな子どもが遊ばなくなる、遊べなくなることがあります。それはどんなときでしょうか。それはいろいろな面で調子が良くないとき、機嫌が悪いときなどで、それにはいろいろな原因があげられます。
まずは体調の面です。熱がある、風邪をひいている、病気にかかっている、お腹が空いている、喉が渇いている、眠たい、だるい、などの自分の体の状態が影響を及ぼします。また、着ている服が気温に対してちょうどよいかどうか、着心地がよいかどうか、運動しやすいかどうか。そんなことも影響を及ぼします。
次は心の面です。悲しかったり、イライラしていたり、怒っていたり。そのような感情が強い時、大声で泣いたり、震えたり、怒鳴ったり、叩いたり、ひっかいたり、蹴飛ばしたり、甘えたり、大人から離れなかったり、抱っこしてもらいたかったり、などのに現れます。このような状態では、子ども達は自発的に遊ぶことができません。
そして精神的な面。自分が親や保育士などの大人に受け入れられていると感じられない、自分が自分でいることができない、何らかのストレスやトラウマを持っているなど精神的な状態がよくないと、やはり自発的にその子らしく遊ぶことはできません。
このような色々な要因が考えられますが、その中でも、現代を生きる子どもたちを遊べなくするのに影響している一つは睡眠です。前の晩によい睡眠をとることができた子どもと、そうでない子どもでは、大きな違いがあります。どれくらい睡眠時間が必要か、どのように寝入るか、目覚めるかなどは個人差がありますが、自分の体を育んでいくことが大きな課題である乳幼児にとって、睡眠が大切であることは言うまでもありません。昔から言われているように、寝る子は育ち、「早寝、早起き」は、この時期の子どもにとても大切なこと。夜更かしをしないで早い時間に眠れるような生活のリズムを作ることは、子どもを健やかに育む、時間的な「おおい」となります。
寝入りをスムーズにするために大切なのは、寝る前の時間を、穏やかに静かに過ごすこと。就寝時間の直前まで大騒ぎをして興奮した状態だったり、テレビ、ゲーム、YouTubeなどのメディアによる強い光や音の刺激にさらされていることは、子どもからよい眠りを奪ってしまいます。スクリーンを見つめているとき、子どもはそれに集中して静かにしていると思ってしまいますが、実はその刺激により内的には興奮している状態になっています。そしてよい眠りが取れないことは、次の日の子どもの状態に反映し、この時期の子どもの大切なお仕事である、自発的な遊びを奪ってしまいます。
子どもがよい睡眠を取れる生活を作っていきましょう。よい睡眠が取れると、子どものぐずり、機嫌の悪さも減っていき、自己治癒力、免疫力を高めることにもつながると思います。
2023年7月号
『言葉は習慣』
言葉を話すときに、何を意識していますか? おそらく多くの場合は、話す内容ではないでしょうか。誰かに対して話すときに意識するのは、その人に伝えたい内容。その際、どのように話すかは、ほぼ無意識です。声の大きさや強さ、高い声か低い声か、早口かゆっくりか、短い文章に分けて話すのか句読点をつけず続けて長く話すのか、文章の中や前後に間があるのかなどなど。話し方は意識していないものです。
話し方に対して無意識なのは、話し方は「習慣」だからではないかと思います。習慣になっていることは、いつもそのように行うことができますが、それを変えることはなかなか難しいのは、誰でもよく知っていることでしょう。そしてどのように話すかによって、伝えたい内容はうまく伝わったり伝わらなかったりするのです。
無意識な話し方にさらに加わるものがあります。それは、話す人の体調、心や精神の状態です。疲れていて話すときは疲れが、嬉しくて話すときには嬉しさが、イライラして話す時はその苛立ちが、加わるのです。そして話したい内容よりも、話す人の状態の方が相手に伝わってしまいます。特に乳幼児が何かをやらかした時に、イライラしてそれを怒って伝える場合、子どもには怒っている大人の表情、仕草、言葉の雰囲気などが伝わり、肝心の伝えたい内容はほぼ伝わらないのです。
どうでもよい内容ではなく、しっかり伝えたいことを話す場合、その子どもがすべきこと、したらよいことを、先ず大人がしっかりと決めた上で、その内容だけを、否定文、疑問文でない短いシンプルな言葉で伝えます。たとえば、今お片付けをするのは「当たり前」であり、「自明」であり、「例外」はないこと、それは朝にお日さまが登り夕方に沈むのと同じように、春の後に夏が来るのと同じように、当たり前だということを、私たちがしっかりと意識していたら、その言葉は伝わるものです。この首尾一貫性のようなものを大人が内面に持ちつつ、怒るのでも強く命令するのでもなく、ニコニコしすぎるのでもなく、自然に当たり前に伝えられたら、子どもなりにそのことを納得して受け入れられるのです。
子どもにとっても、話すことは習慣。成長発達する中で、運動能力を身につけていくのと同じように自然に身につけていきます。何をどう話すかも、周りの人たちの話す言葉の模倣の場合が多く、習慣のようにその言葉や文章を話します。大人の様に意識的に話しているのではないのです。子どもがよからぬ言葉を繰り返し言うことがあります。その際は、そんなこと言っちゃいけませんと怒るのではなく、「バカヤロウは言いません。」とだけ伝えてみましょう。また言ったら、同じようにこちらも繰り返します。理由や説明も不要。「〇〇は言いません。」「〇〇はしません。」と返すことがこちらの習慣になると、子どもが「〇〇と言わない」ことが習慣になる可能性が出てくるのです。
また、子どもが話すとき、その言葉と同じ内容を大人が言うときに持っている意図、考え、感情などはまだありません。「習慣」のようにそれが言えている、自然に口に出るので、子どもの言葉の表面的な字面に振り回されるのではなく、そう言っている子どもの意識や思いなどに耳を澄ます必要があります。
子どもがその言葉を聞いて安心するような、落ち着くような、話し方を私たちができたら、子どもの健やかな育ちのためにも、私たち大人自身のためにも大きなプラスになると思います。そして誰かに話すときに常に大切なのは、相手の存在に耳を澄ますこと。そして相手がどのように受け取っているかに対する想像力です。
2023年6月号
『シンプルな伝わる言葉』
子どもに何かをして欲しいときは、その行為を目の前で行うのが一番うまく伝わります。直接見た行為は一目瞭然、子どもは見たことを自発的に自然に真似して行います。乳幼児はそのように行為する能力を持っているのです。言葉による説明や口上書きは、目の前で行為していても、子どもの自然な模倣を妨げてしまうことがあります。でも、伝わるやり方もあります。
靴を脱ぎ散らかした男の子を呼び止めて、横山先生は次のようなことをしました。「よく見ててね」と言うと、ゆっくりとその子どもの靴を手に取り、靴箱へ持っていき、そこにそっとしまいました。そして、その子の目を見て、「ね!」と一言。その子には、靴は脱いだら靴箱にしまうことが、当たり前なんだとちゃんと伝わり、その行為は自然に繰り返されていき、よい習慣になっていきます。
もしこの時、「誰ですか! ここに靴を脱ぎ散らかしているのは!あ!〇ちゃんか!靴は脱いだらちゃんと靴箱に入れなきゃいけません!早く、しまいなさい!」などと大きな怒っている声で言ったら、〇ちゃんは次もおそらく靴は脱ぎ散らかしたままでしょう。もし、次回から靴をしまうとしたら、しまわないと怒られるから、と子どもなりに考えた結果かもしれません。
子どもに伝わるのは、具体的な言葉です。その子が何をしたらいいかをシンプルに伝えるのです。「帽子をかぶる」と伝える場合、「帽子をかぶります」「帽子、かぶろう」といった、具体的に何をしたらよいかだけを伝えます。「ぼ・お・し!」とだけでも伝わります。帽子をかぶらずに外にいる子どもには、「〇ちゃんの帽子はどこ?」と言うような言い方もよいと思います。「お外に行くから、帽子をかぶりなさい」「お外はお日様が照っていてとても暑いから、帽子かぶらないとダメ!」と言うように説明の部分が加わると、本題の「帽子をかぶる」と言うことが伝わりにくくなってしまうものです。
次は、否定文を使わないと言うことです。子どもが走り回っているとき、「走っちゃいけません!」と私たちは普通、言ってしまいます。そのとき、子どもがすべきことは何かを考えると、それは「歩く」こと。「歩くよ」「ゆっくり歩こう」のように具体的にその子がすべきこと、行ったらよいことを、シンプルに、説明をつけずに伝えます。一度にたくさんの内容を伝えないようにすることも大切。その時にその子どもに伝えたいことを肯定文でシンプルに、そのことだけを伝えます。特に最初に説明がたくさんあって、最後に「だからそれはしてはいけません」と伝えても、子どもはその最後の部分までちゃんと聞くことは難しいですし、ましてや否定文では、何をして良いのやらわからないのです。
そしてもう一つ。疑問文を使わないと言うこと。「片づける? そろそろおうちに帰る? もう寝る?」などの疑問文に対して、ほとんどの子どもは「NO」と答えます。文章の最後に「?」があると、それは「片づけない!帰らない!寝ない!」という否定の回答を、実は誘導しているのです。本当は眠いのに、「寝ない!」と言わせてしまうのです。「さあ、お片付け。おうちに帰ります。寝るよ。」と言うように、文章の最後に「。」をつけてみましょう。いつもうまく行くわけではありませんが、試してみる価値は大きいです!
自分が子どもに対して、どのような言葉を話しているかを、内容や文章の面、声の質、大きさや速さ、間の取り方などの話し方の面を、是非一度、意識化してみてください。自分と子どもの性格も踏まえて、ちょうどよい言葉を探していくと、子どもの健やかな成長に、そして私たち大人にもプラスになるのだと思います。
2023年5月号
『技を盗む子どもたち』
職人の世界では「技は盗め」と言われることがあります。師匠の仕事の仕方、道具の使い方、その時の手つきや動きを、弟子は、直接見て、それを真似することによって身につけていくということです。「盗め」という言い方は、あまりよくないようにも思いますが、親方はその技についてのマニュアルを弟子に渡したり、言葉で教えたりすることはあまりなく、自分の仕事をこなしていき、弟子は親方のやり方を、直接よく見て、真似して、それができるように身につけていきます。この学びは、親方が教えてくれるのを受身的に待っているのではなく、弟子が自分から進んで自主的に自発的に行うとても能動的なプロセスです。
学校などで技を教える場合、先生は生徒に伝えるべき内容を準備し、言葉や図などを利用し、今ではIT技も多用してそのマニュアルと言ってもよいものを提供します。そして学ぶ側の生徒にその内容に興味関心がなくても、それは一方的に伝えられ、生徒本人がそれに興味関心を持って意識的に学ぼうとしなければ、受身的な学びのプロセスになってしまいます。
乳幼児期の子どもが、周りにいる親、家族、保育士その他の人たちをお手本として無意識に真似していきます。それは弟子が親方のやり方を真似して身につけていくのと、とてもよく似ています。真似させられるのではなく、子どもが自ら無意識ですが自発的に真似していくのです。では、乳幼児が身につけていくべきことは何でしょうか。それは人間として生きていくために必要な技、スキルと言ってもよいものなのです。
乳幼児にとって、体を育んでいくことが、この時期だけの特別なお仕事。人間として生きていくために必要な活動ができるような体を自ら育んでいきます。人間として生きていくための、人間ならではの能力、それらを獲得することと、その活動ができるような体を自ら育んでいくことをこの時期にしっかりとできたかどうかは、その後のその人の人生に大きく影響を与えます。
子どもに言葉で伝えたり、説明したりしても、上手く伝わらないことは多々あります。子どもに伝えたいことは、子どもの前で実際に行うのが一番よく伝わるものです。子どもにとって、目の前で行われていることは、一目瞭然。そこに子どもの持つ模倣衝動が直結して、それを自主的に行うのです。
「見倣い」という言葉も「技を盗む」こと、そして、子どもがお手本を真似していくこととつながります。乳幼児期は、人間になっていく「見倣い期間」。直接見て、真似て、身につけていきます。
そして技を身につけるために必要なことがもう一つ。習慣のように自然にできるようになるまで繰り返すということ。繰り返して練習することにより、そのように自然に動けるようになり、その技が身につきます。子どもにとって生活のフォルム・リズム・繰り返しが大切なのは、まさにこのことと関わっています。大人のように意識的に考えて行為するのでなく、繰り返していくうちに無意識に習慣のように、人間として生きるための技を身につけて行けたらよいと思います。
滝山しおん保育園が、園児たちにとって、人間として生きていくための技を盗める、お手本となる師匠と出会える「工房」のようになれたらと思っています。
2023年4月号
『人間性・社会性のお手本』
人間の赤ちゃんは、生まれた時には、人間本来の直立する姿勢をとることができません。二本の足で歩くことも、手を使って何かをすることもできません。赤ちゃんは人間ですが、一人前の人間として一人で生きていくことはできません。
人間は一人で生きていけるだけの体、心、精神(自分意識)が未発達の状態で生まれてきます。人間は生まれてから「人間になっていく」必要があります。生まれてから最初の3年の間に、人間としての姿勢、直立歩行を獲得し、言葉を話し始め、考えることを始め、自分のことを自分だと感じる意識の覚醒の第一段階に到達します。
しかし放っておけば、勝手に人間になれるわけではなく、どのような人間になるかという「お手本」が必要です。子どもと共に生きている私たち大人は、子どもにとってお手本。そのお手本を子どもは無意識に模倣していきます。人間と違って、動物は生まれながらに、生きていくために必要な姿勢や能力を遺伝や本能によって刻印づけられています。「種」としてのその動物の性格や特徴をはっきりと持って生まれてくる動物に比べて、人間は精神的個性の違い、心のあり方の違い、体質の違いなど、「個」として一人ひとりの違う特徴が、とてもはっきりしています。
それぞれの人間には、精神的個性、遺伝的体質という二つの先天的な個性が与えられていますが、その二つの先天的な個性は、生まれてからの生活の中で後天的に結びついていきます。そして、この後天的な部分は、どのような人間になっていくかということと大きく関わっています。それは、どのような人間をお手本として真似していったかということ。乳幼児期の子どもの持っている無意識に真似をする能力は、人間になっていくための能力ということができます。
赤ちゃんの時から子どもは、周りの人間が自分にどのように接するかを体験し、人間とはそのように行為するものだ、ということを身につけていきます。私たちは、人間になっていく子どもたちにとってのお手本であり、私たちがどのように他の人達と接するかは、子どもが身につけていく社会性のお手本です。
子どもにとってのよいお手本として行為したり話したりすることは、なかなか難しいことです。私たちの行為や言葉は、多くの場合は無意識で、習慣といってもよいようなものだからです。しかし意識的にできることもあります。それは、子どもが真似をして身につけるべきでないことを、子どもの前で行わないように、言わないように、考えないようにする、ということ。私たちのことを愛している子どもたちは、私たちの行っていること、話していること、考えていることを、無意識に「よいもの」として真似していきます。そして、よき手本であろうと少しでも努力している大人の姿は、成長発達している子どもにとって、とてもよいお手本となるのです。
園児たちにとって、家庭では家族皆が、保育園では子どもの傍らにいる保育士や他の職員たちがお手本となりますが、子どもたち同士もお互いに模倣し合います。4月になり、お互いにお互いを育てあっていく関係、大家族のような滝山しおん保育園の1年が始まりました。みなさま、どうぞよろしくお願いいたします。