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2025年3月号

​『終わりは始まり』

 

 3月は卒園児を送り出す月。今年度最後の幼児の保護者会と親父の会では、日頃の保育の場面の写真を見ていただいた最後には、卒園する年長児それぞれの入園した頃の写真と今の写真を一緒に見ていただきました。その際、その子どもの保護者の皆さまには一言お話をお願いいしました。小さい時からのその子らしさが残りつつも大きくしっかり育った年長児の今の姿は本当に素晴らしいです。

 保育園で過ごしている時のその子は、親と家から離れ、小さいながらに社会に出てそこで生きていきます。そこでのたくさんの体験、活動を通して、その子どもならではの個性、性格、意識が育っていきます。身体は大きくなり、身体能力も、言語能力も、思考能力も、社会性も育っていきますが、それらを貫いている自分意識、自我も育っていきます。

 

 南畑や畑をはじめとするたくさんの自然とのふれあい、大家族のような縦割りの保育の中でのたくさんの子どもたちや大人たちとの出会い、造形、健康体操、オイリュトミー、陶芸、音楽、手仕事、料理などなどの活動。これらの体験は、子どもたちが人間として生きていく基盤を作っていくことに役立ち、それによりその子らしさが育ってきたのだと思います。

 卒園して小学校に通い始めても、この自分意識の発達発展は続いていきますが、この領域はその子どもだけの内的な世界で、そこには親も保育士や教師も介入できない聖域。その子どもの自分意識、自我に必要以上におせっかいな介入はせず、それが育っていくことに寄り添っていきたいものです。ありのままの自分が周りにいる人間に受け入れられていると感じられる時、子どもも大人も自ら成長していけるのだと思います。自分が受け入れられていることが、自己教育の場となるのです。

 

 卒園する子どもたちにとって、滝山しおん保育園が、ありのままの自分が受け入れられていると幼児ながらに感じてくれた場であったかどうか。その結果がわかるのは、その子どもが大人になったときかもしれません。でも、今の年長さんの生き生きとして表情や姿を見ると、そのような場を作ることは、ある程度できたのではないかと思います。それは保護者の皆さまのご協力があったからであり、子どもたちの育ちに寄り添うという共同作業ができたのではないかと思っています。至らないことも多々あったと思いますが心より感謝しています。ありがとうございました。

 そして、子どもたちの成長発達に寄り添うことを自ら選び、本当に一生懸命保育園のために仕事をしてくれている職員。この滝山しおん保育園のチームの一人ひとりがいてこその子どもの成長であることも忘れてはいけません。心より感謝しています。

卒園しない子どもたちは、3月末に進級式があり、4月から新しいクラスの担任や新入園の子どもたちとの生活が始まります。いろいろな別れ、さよなら、そして、いろいろな出会い、始まり、そして変化が交錯します。

 でも、子どもは成長し続け、私たち大人の人生も続いていきます。終わりは始まり。子どもたちの更なる成長に寄り添う私たち大人も、精神的に発展進化し続けていく人でありたいものです。

2025年2月号

​『命に力を与えるリズム』

 

 しおん保育園では1月にお餅つきをします。つくのは白いお餅でなく、玄米のお餅。しおんの食へのこだわりがここにも現れています。お餅は五種類で、自家製のあんこ、きな粉、すり胡麻。畑で育だてた大根のからみ、そして納豆。子どもたちが自分達で野菜を刻んだけんちん汁と一緒にたくさん美味しくいただきました。通常の白米のもち米に比べて、つくのに時間がかかりますが、つきあがった玄米餅の味は格別です。

 

 餅つき機や機械でついたお餅も、私たちは美味しくいただきますが、臼と杵で人がついたお餅はやはり美味しさが違います。今年の玄米もちもとても美味しく、それを実感することができました。子どもたちも杵を持って、お餅つきを体験できました。

 

 蒸しあがったもち米が臼の中に入れられると、先ずもち米をつぶしていきます。小さな杵を持ったつき手が息を合わせて、臼の縁から中心へと杵の横の部分でもち米をつぶしていきます。両手で杵を押しながら臼の周りを少しずつ回っていくようにつぶしていきます。皆の呼吸が合ってくると、とてもリズミカルの動きになります。杵と杵がぶつかる音も響きます。見ている子ども達からの掛け声も響いていきます。

 

 もち米がつぶれてまとまると、いよいよ杵でお餅をついていきます。二人、三人で順番についていったり、一人で大きな杵でついたり。ここでもトン、トン、トン、ペッタン、ペッタン、ペッタンと、繰り返しのある動きが続いていきます。そして、つき手だけでなく返し手も重要な役割を果たします。つき手と返し手の絶妙な呼吸が求められます。

 

 リズム良くついていくとき、つき手も返し手も気持ちがよくなっていきますし、お餅をつくことに喜びを感じていきます。そしてそれを周りで見ている子どもも大人も、一緒になって盛り上がっていき、その生命感あふれるリズムを感じていきます。そして人が奏でるリズムが、リズムのエネルギーが、お餅の中に入り込んでいくのです。そのリズムのプロセスがお餅を美味しくしているのではないかと思います。機械でついたお餅との大きな違いです。

 

 お餅つきはその最たるものですが、私たちの生活のために必要な営み、家事仕事、手仕事の中には、その仕事ならではのリズムがあります。包丁で切る、パンやうどんなどの生地をこねる、泡立てる、箒で掃く、雑巾で拭く、針で縫う、編み棒で編む、はさみで切る、鋸できる、釘を打つなどなど。いろいろな活動にはリズムがあり、そのリズムがうまく取れると、その仕事はうまくいきます。そして、その仕事に使っている道具ならではの響きが、音楽のように響き始めます。餅つきの杵と臼の音、ノコギリを引く音、包丁で刻む音、箒で掃く音、泡立て器で泡立てる音。年長さんは織物をしていますが、縦糸に横糸を織り込んでいくのも、上手にやっている子どもの手つきはとてもリズミカルです。

 

 命があるところには、その生き物ならではのリズムがあります。人間の生活の中の仕事のリズムも、人間の命と結びついたリズムなのだと思います。そしてリズムは私たちの命に力を与え、活性化してくれます。成長発達していく子どもたちの生活の中に、人間の命のリズムが響いているといいな、と思います。それは子どもの持つ自ら育っていこうとする意志、生きていこうとする意志に働きかけてくれます。

2025年1月号

​『子どもと大人の嘘の違い』

 

 子どもはいつから嘘をつくようになるのでしょうか。子どもの成長発達を見てみると、二歳くらいまでの子どもは嘘がつけないことがわかります。嘘をついているように見えても、意識的についている嘘ではなく、その言葉を模倣していることが多いです。

 

 1歳頃に直立して歩くことができると言葉を少しずつ話し始め、2歳くらいでだいぶ話せるようになります。でもこの時期の自分のこと、何を話し行ったかを思い出すことができません。

 2歳半くらいの反抗期・いやいや期は、最初の自分意識の目覚め。「イヤ」「ダメ」「しない!」とぶつかって抵抗を感じることで自分を確認していきます。この時期から「私」「僕」という言葉で自分のことを呼び始め、思い出せる記憶が始まります。

 そしてこの時期から嘘をつけるようになります。嘘をつくのは悪いことと思ってしまいますが、子どもの成長発達の中で嘘がつけるようになるということは、自分意識が育ってきている証拠。嘘をつくためには自分意識、嘘をつく主体としての「私」が必要なのです。おそらく動物は嘘をつけないのでないかと思います。自我を持っている人間だから嘘をつくことができるのです。

 どの人も胸に手を当ててみると、過去についてしまった嘘の幾つかを忘れられずにいると思います。嘘は意識的に故意に発する言葉なので、嘘をついた本人は、自分が嘘をついたことを自覚しているし、思い出せます。2歳半くらいまでは、まだ嘘をつく主体としての自分意識が発達の途中なので、言葉や行為には裏表はないのです。

 

 しかし、よく嘘をつく人もいます。よく嘘をつく人は、嘘をついているという自覚を持っていません。はっきりとした自分意識がないと、嘘をついても、嘘をついたという自覚がないのです。それは嘘をつく主体としての自分を持っていないということ。嘘は全てが悪いわけではなく「嘘も方便」と言われますが、その場合は意識的に良いことのために、あるいは他の人のために嘘をつくわけで、自分の利益のために、自分を正当化するために、事実を曲げるような嘘をつくのとは全く違います。自分の低次な欲望や欲求のために嘘をつく人は、しっかりとした自分意識、自分のことを客観的に観る視点を持っていません。本人は意識していないけれど、周りからは、嘘つき、ズルい人と見られてしまいます。

 

 9歳以前の子どもは、まだはっきりとした自分意識を持っていないので、無意識に嘘をついてしまうことがありますし、幼児ならではの豊かな想像力ゆえに現実や事実と異なることを言うこともあります。子どもの嘘には子どもの自分意識の発達度合いにあった対応が必要で、頭から悪いことと決めつける必要はありません。

 

 大人は、自分に対しても嘘をつくことができます。本当は「ノー」と感じているのに「イエス」だと自分の中で偽って行為してしまいます。それを「忖度」とも呼びますが、子どもの傍にいる私たち大人は、子どもにとってのお手本ですから、しっかりとした自分を持ち、「嘘つき」と呼ばれないようにいたしいものです。

2024年12月号

​『冬の季節と闇の中の光』

 

 今年は猛暑の夏の後、彼岸花も金木犀も例年より遅い開花でしたし、秋に色づく前に枯れた葉をつけた街路樹も見かけます。またゆったりとした秋はないまま寒い冬になるような流れも感じます。不思議な動きの台風や集中豪雨や落雷も多く、今年も異常気象ということになるのでしょう。しかしその中でも、私たちが暮らしている地域では、四つの季節がはっきりしており、季節の廻りを体験することができます。それはとても素晴らしいことです。

 

 1年間の中には四つの節目、冬至、春分、夏至、秋分があります。これから迎える冬至は夜が一番長く昼が一番短い日。冬至を境に昼が長くなり始め、春分で昼と夜の長さが同じになります。春分を過ぎると昼の割合が増えていき、一番昼が長く夜が短くなるのが夏至です。今度は夏至をターニングポイントとして昼が減り始め、秋分で昼と夜が同じ長さになり、夜が一番長い冬至へと向かいます。闇が一番多く、そこから光が増え始めるのが冬至。光の誕生の時でもあります。

 

 この繰り返される季節の廻りを、毎年新たに驚きをもって、様々な感覚を通して直接体験していくことは、子どもの成長発達を促し、そして私たち大人の生命力も高め、心にも精神にも力を与えてくれます。

 

 夏には自然界には色と光が溢れ、人の生活、営み、意識は外へと向かっていきます。美しく咲いた花々や茂った緑の葉、たくさんの虫たちが活動し、子どもたちも水遊び、花火、お祭りなど、夏ならではの活動を楽しみます。蝉の代わりに秋の虫の合唱が響き渡り、秋の青空が広がると、植物の熟した実や色づいた葉は大地へと落ちていきます。芸術の秋、読書の秋などと言われますが、外界の光や色に向かっていた心や意識が自分の内側に向かい始めます。そして冬が始まり、12月になって心や意識が最も内的になっていくのが冬至。ちょうどクリスマスの時期に重なります。

 

 乳幼児期の子どもの一番の課題は、身体を作り育んでいくこと。そして人間の心や精神と比べると、人間の身体は外の自然界の一部と言っても過言ではありません。季節の廻りや、その中でのいろいろな変化を感じて楽しめるような生活。それは子どもの身体の成長発達に大きくプラス要因として働きます。そのために一番大切なのは、子どもの傍にいる私たち大人が、自然界に現れる季節の廻りに、美しさを感じる開かれた感覚と驚く心を持っていること。感覚の門を開き、目を開き、耳をすましてみると、それによる季節の体験は、私たち大人の身体も心も精神も健やかにしてくれます。そして真っ暗な冬至のクリスマスに生まれる光を、外の自然界にもそして自分の心の中にも感じられたらと思います。

2024年11月号

​『赤ちゃんからの自己教育』

 

 赤ちゃんは産まれて3か月くらい経つと首がすわりますが、皆さんの中で赤ちゃんに対して、どのようにしたら首がすわるかを教えた方はいらっしゃるでしょうか? いろいろな育児書やいろいろな教育学からの実践書はたくさんありますが、首のすわらせ方が記されているものはおそらくないと思います。

 

 赤ちゃんは無意識にですが、首の座らせ方を自分で獲得していきます。親も保育士も首のすわらせ方を教えることはできないですし、教える必要はありません。その後のおすわりの姿勢を取ることも、ハイハイを始めることも、つかまり立ちすることも、手を離して直立して、最初の一歩を踏み出すことも、そのやり方は自分で無意識に見つけていくのです。そこには自分で育っていこうという意志が働いています。

 

 出産の時に妊婦は赤ちゃんを産もうという強い意志を持っていますが、胎児は産まれてこようという意志を持っているので、出産は共同作業です。出産に際して胎児の産まれてこようという意志を感じられた方も多いと思います。この産まれてこようという意志は、育っていこう、自分を育んでいこうという意志につづいていきます。生きていこうという意志とも言えるものです。それは人間になっていく意志、人間としての身体的能力、心や感情のあり方、思考能力などを身につけ学んでいこうという意志でもあり、もっと長く人生全体を見てみると、成人してからは自分や自分の身体を維持していこうという意志であり、人生の後半になると老いていこうという意志、そして死んでいこうという意志につながっていきます。最後の二つの意志は自覚したり肯定したりするのが難しいですが。

 

 「すべての教育は自己教育だ」と言われることがありますが、人間は生まれたときからこの生きていこうという意志により自己教育をしています。赤ちゃんが自分で首を座らせることができるのは、自己教育の結果なのです。この観点からすると、子どもが学ぶべきものごと、身につけるべきことを、子どもが自分で興味を持ち自分で身につけ、学んでいこうという意志を持てるように準備してその子どもに合った形で子どもの前に提示できる人こそ、よい保育士、教師、親なのだと思います。乳幼児の場合は、子どもが自己教育していくためにふさわしい環境を整備できるかが大切で、それは保育園の大きな課題です。この環境には当然、その環境の中にいる人間も含まれています。

 

 学校教育が終わったから大人だ、大人は既に完成している存在だという考え方もありますが、成人してからも自己教育を続けていくことができるのが人間のすばらしいところ。そして大人の自己教育には大切なのは、ありのままの自分を客観的に観る視点を持つことです。自分自身を客観的に観察できる人は、子ども一人ひとりをしっかりと観察することができます。

 

 自己教育を続けている大人が生活環境にいることほど、自己教育をしていく子どもにとってよいお手本はありません。そして子どもと一緒の生活は自己教育のチャンスの宝庫です。

2024年10月号

『「大豆を茹でる」と育つもの』

 

 料理研究家の辰巳芳子(たつみよしこ)さん。この方のお話や文章からは、現代人として今を生きる人間の覚醒した意識を感じることができます。「ことことふっくら豆料理」という著書から「大豆を茹でる」という素晴らしい文章を紹介いたします。子どもたちが何を体験して何を育てていくべきかという問いへのヒントが見つかるのではないかと思います。

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 まず、豆の中から、虫食いなどを捨て、洗います。大豆は今年豆なら前の晩から、豆の四~五倍量の水につけておきます(古いものなら、間で水を替え、二晩)。つけ水のまま煮始めます。蓋をしたまま煮たてると、必ず、ふきこぼれますから、煮たち始めたら、必ず蓋をずらして、火を細めます。常に煮汁が、豆の上二~三センチかぶっているように注意し、水分が減ったら、差し水をしながら、ゆっくり煮ます。

 以前、暮らしの中に火鉢があった頃、女たちは炭と灰の調節で、ピンからキリまでの火を作ることを心得ていました。ピン、というのは、強火の遠火のこと。備長という種類の炭を風通しよく、たっぷり組んで、あぶりものをしたものです。キリの方は、ほっこりと、柔らかく、長持ちする火力のことです。

 炭をねかせて、灰をかけることもありましたし、粉炭と呼んでいた、炭を扱うときどうしても出来てしまう、炭のくだけたものを利用することもありました。灰が火になるようなもので、鍋底一様に柔らかな火力があたることになったのです。なんと美味しい豆が炊きあがる道理ではありませんか。

 豆を煮る鍋は、朱色のつばのついた楽焼きの土釜をどこの家でも使っていました。ですから、豆は、土釜で煮るものと、思い込んでいました。この土釜は、割れやすく、そのためでしょう、もう作られていないようです。

 あぶりもの、炒りもの、煮もの。茶の間の火を囲んで、子供らは、火加減やら、手の動かし方やら、ゆったりと仕込んでもらったものです。灰を火にさらさらとかけて、火力を抑える場合、火の上に手をかざして、灰をかける前とかけた後の火力の違いを親がちゃんと納得させ、親もそれで安心したものです。

 それらは、何気ないやりとりであったのですが、豆が炊けてゆく手応え、つまり、目を使い、舌で味わい分ける、指でさわる、香りの変化に注意する、などなどの細やかな対応の中で、料理以前の事どもも含め、五官の訓練を受けていたような気がいたします。この訓練により、子供らは自分を囲む外の世界に開眼し、その開眼によって、自己そのものを悟ってゆくことができる真の自己開発を身につけ、自信というものの「根」となるような手応えを集積したのでした。また、長い時間をかけて豆を炊く中で、継続的に注意力を維持する、神経の使い方も体得させられたと思います。

 何事も、教育の場にならぬものはありませんが、豆を炊くようなことでも、意識的になされば、立派な、教育的場面が展開するのだと思います。

     「辰巳芳子のことことふっくら豆料理」辰巳芳子著

             農山漁村文化協会(農文協1991)

2024年9月号​

『場所と時間と繰り返し』

 

 乳幼児の記憶は場所(先月号参照)の他に、時間とも強く結びついています。その時間になると時間の流れと結びついたこと、その時間に体験したこと、行ったことなどが呼び起こされるのです。

 

 朝、登園する時間にぐずったことがあると、特別にぐずることを引き起こす要因がないのに、毎朝ぐずることがあります。自由遊びの時間に保育士がそろそろ片付けようとする頃に「せんせい、もうおかたづけ?」と聞いてくる子どももよく見かけます。もちろん場所などの時間以外の要因も合わさっているので、純粋に時間による記憶とは言い切れませんが、時間と結びついて、「腹時計」という言葉がありますが、それに似ている能力を乳幼児は無意識に強く持っているようです。あるいは「体内時計」とも関係があるのかもしれません。

 

 その時間になると、その場所にいくと思い出すのが、時間や場所と結びついた記憶で、普段は思い出さないですが、行う活動と自分自身は無意識に強く結びついています。その活動が身につく、習慣となるということなのです。

 

 時間の流れに伴って、その時間になると特定のよい活動が自然に行われたらどうでしょう。

 

 生活の中の本来の人間らしい、人として身につけたらよいようなことが、時間や場所の環境を整えることによって、自然に行えて身につけられると、子どもも大人も精神的に安定し、落ち着き、生活も余裕のある楽しいものになっていきます。

家での生活や保育の中で、生活にフォルム(場所やスタイル)があり、時間の流れ(リズム)があり、それが繰り返されていくと、次に何をするかを言葉で知らせなくても、次の活動に自然に向かっていくことができます。そしていつもの活動が、いつもの場所で、いつもの時間の流れの中で行われ、それが毎日繰り返されていくと、子どもが機嫌よく落ち着いて過ごすことを促し、実は大人の生活にも余裕が生まれ、それにより子どものことをよく観察したり、機嫌よく子どもと向かい合ったりする時間が生まれてくるものです。

 

 繰り返しにより、その活動は身についていきますが、これは素晴らしいことであると同時にとても怖いことでもあります。人間として、あるいは家庭や保育園の集団生活の中で行うべきでない活動も、毎日繰り返していくうちに、それは身につき習慣になってしまいます。身についたものを変えることは、とても大変な作業であることは皆さんもご存知の通りで、乳幼児の場合、身についたことを自分で意識して修正していくことはまだできません。9歳を過ぎて、自分のことを客観的に見る意識を持ち始めると、少しずつ可能になっていくのだと思います。

 

 乳幼児期の子どもの一番の課題は自分の身体を育んでいくことで、人間として身につけるべきよい行為を自然に行える身体を作っていく時期です。フォルム、リズム、繰り返しのある場所や時間の整った環境を大人が作ると、それは子どもが健やかに育っていくことを支え、促してくれます。

​2024年8月号

『場所の記憶が促すもの』

 

 土用の丑の日と言えば鰻ですが、梅仕事をする人は、梅干しを干す時期に当たります。だいぶ昔の話ですが、私の娘が二歳半くらいの時のころにこんなことがありました。散歩で近所のいつも声をかけてくれるやさしいおばちゃんの家の前を通りました。すると庭一面に梅がたくさん、平たい丸い籠に綺麗に並べて干してありました。梅の土用干しです。梅酢と紫蘇の香りと、一面に広がった赤紫蘇で染まった梅の色の印象は、かなり強烈だったようです。

 

 その後その前を通るたびに、娘は「今日、梅干しないね」と言い続けました。日常の生活の中で、娘はおばちゃんの家に梅が干されていて、いい匂いがしたことは思い出してはいません。ただ、その家の前を通ると必ず思い出すのです。

 

 乳幼児期の子どもの記憶と場所は、とても強く結びついています。大人のようないつでも思い出すことのできる記憶とは異なる、場所と強く結びついた記憶を子どもは持っています。この梅干しの記憶も場所の記憶の一例です。その場所に行くと、その場所で体験したことが、無意識に自動的に思い出されるのです。

 

 その意味で子どもの生活、衣食住、遊びと関わるいろいろな物が、いつも同じ場所にあることはとても大切です。同じものが同じ場所にあることによって、子どもは安心し、落ち着きが生まれます。

 

 まず、子どもの関わるもの(おもちゃ、靴、帽子、服、食器などなど)に、定位置、その物の居場所、お家を決めてみましょう。棚の真ん中の段、一番下の引き出し、この籠の中、この箱の中、といった感じです。この積み木はいつもこの籠に入って棚の下の段にあると、その積み木を使いたい時、子どもは迷うことなくその棚なの下の段の籠に向かいます。そして片付けの時間になると、積み木を籠に入れて棚の下の段にしまうことが簡単にできるようになります。同じ場所にあることによって、繰り返しが生じ、よき習慣に繋がっていきます。

 

 次は、同じことを同じ場所で行ってみましょう。食事の際、家族それぞれの席がいつも一緒、取り込んだ洗濯物をたたむ場所がいつも一緒、お風呂の後に髪の毛を乾かしてもらうのはいつもここ。そんな感じです。同じことがいつもの場所で行われると、子どもは安心し、それが習慣のように当たり前になり、落ち着きが生まれます。

 

 同じものの特定の置き場所が決まっていなくて、その時によっていろいろな場所に置かれていたり、同じ活動がその時の親や保育士の気まぐれで毎回違う場所で行われたりすると、その活動がどんなによいものであっても、子どもを不安にし、必要以上に覚醒させ、落ち着きを奪ってしまいます。

 

 また、子どもには使う必要がないけれど大人には必要な物には、子どもの目に届かない置き場所を作ることも、とても大切です。乳幼児は現実主義者。子どもの目に触れなければ、それを使いたいと思うことも無くなるのです。子どもの目に届かない大人の物の置き場所を作ることは、子どもを守るよい環境を作ることになるのです。

 

 場所を決めてあげることは、生活にフォルム(形)を与えること。よいフォルムが子どもの朗らかな落ち着いた生活、健やかな成長発達を促します。

2024年7月号

『ごっこ遊びの原動力』

 

 ある子どもが左手に持った積み木に右手で持った積み木から何かを注ぐような仕草をしています。何をしているのでしょう? その子どもは「お母さん」役。左手の積み木は「コップ」で右手の積み木は「ポット」です。つまりお母さんがコップに麦茶を注いだのです。そしてそのコップ(積み木)をお父さん役の子どもに「お父さん、麦茶ですよ」言ってそっと差し出し、お父さん役の子どもは、その積み木を手にとり、飲む仕草をして「ありがとう、おいしいね」とお母さん役の子どもに伝えました。

 

 この「お母さんごっこ」「おままごと」「ごっこ遊び」の中では、積み木はコップやポットであり、その中には麦茶が入っていて、実際に美味しいのです。

 

 子どもはこのように、ある物を他の物に「見立てる」能力をもっています。そこに働く力を「想像力」、「創造力」「ファンタジーの力」などと呼ぶことが出来ます。この能力を持ち始めるのは、個人差はありますが、二歳過ぎの反抗期(イヤイヤ期)を過ぎたころから。それは幼児期ならではの「ごっこ遊び」の原動力です。

 

 この力によって子どもは、ものごとの意味や概念を対象物に結びつけるのです。実際には、積み木は木の塊に過ぎず、コップやポットではなく、麦茶も入っていません。しかし、その子ども達は、コップ、ポット、麦茶、麦茶を入れて差し出す、それを飲む、ありがとうと言う、などのこの遊びと関わっているいろいろなものごとの意味や概念を、生活の中での体験を通して把握しており、その意味や概念を、そこにあった積み木(もの)に結びつけたのです。この抽象的な概念を物に結びつける能力は、その後の思考の発達、問題解決のやり方などにつながっていきます。

 

 生まれた時に人間は未発達、未分化な状態なので、周りにいる人間の営みを真似することによって、いろいろなことを学び、身につけていき、人間になっていくことが必要。無意識に真似する能力は、乳幼児が人間になっていくために必要な生まれ持った能力なのです。

 

 2歳ごろからの反抗期(イヤイヤ期)前の子どもは、お母さんが今使っている「そのしゃもじ」を使ってご飯をよそいたい、お父さんが使っている「そのボールペン」で書きたい、砂場であの子が使っている「そのシャベル」を使いたいのです。このように周りにいる人の行為を、使っている物も含めて、まったく同じことをしたいという模倣衝動を強く持っています。

 

 この模倣衝動は「ごっこ遊び」にもつながっています。反抗期前の子どもはお母さんと同じ物を使って同じことをしたかったのが、この「見たてる能力」を使って、他の物をリアルなものに見立てて、お母さんのしている行為を、模倣、再現するのです。

 

 このような「ごっこ遊び」を幼児期にたくさんすることは、子どもが健やかに育つことを促します。遊びの中で周りにいる大人の営みを真似して再現することによって、人間本来の営みを身につけていくのです。そしてこの遊びは、ゲームに代表されるような外からの与えられた刺激に対応していく遊びではなく、子どもの自身の体験と、模倣衝動による、自主的、自発的な遊びです。「ごっこ遊び」がたくさんできる時間的、空間的環境を整えたいものです。

2024​​年6月号

『自然との出会いが育むもの』

 

 自分の体を育んでいくこと。それは乳幼児の大きな課題で、生まれた時に両親からいただいた体を、一生住み続ける自分の家に作り変えていくプロセスとも言えます。その中でも感覚器官の育成は、とても大切です。

 

 スマホ、タブレット、テレビなどのメディア・IT機器のスクリーンやスピーカーを通しての体験は「間接」的です。それ対して、触る、見る、耳を澄ます、嗅ぐ、味わうことは「直接」の体験で、それにより、感覚器官は育まれていきます。感覚器官を通して直接ものごとに出会うことにより、出会ったもの「質」を乳幼児は体験します。子どもの年齢が低いほど、出会ったものと一心同体となるとも言えます。感覚を通し、ものごとの「質」と出会うことによって、その子ならではの自分の「質」が育っていくのです。

 

 何を見るかで視覚が、何を聴くかで聴覚が、何を食べるかで味覚が育まれます。ですから乳幼児の感覚体験、そしてその環境は、子どもの成長発達にとても大きな影響を及ぼします。そして私たちの周りの自然界は、豊かな感覚体験ができるフィールドです。

 

 人間は自然と向かい合う意識を持った独立した存在であると同時に、自然の一部、あるいは自然そのものでもあります。子どもの成長発達を見てみると、九歳くらいに大きな変化があり、外の世界と内的な自分の間に境界線がはっきりと現れます。この時期になると、外の自然に向かい合う内的な自分意識を持ち始めるのです。乳幼児にも、徐々に自然と向かい合う意識が生じますが、まだ自然と一心同体で、自然の一部なのです。

 

 乳幼児期の子どもは、物質としての体を育んでいるので、自然の中の「もの」との出会いはとても大切。泥だらけになって遊び、野山を駆け回り、美しく咲いた花を見つけ、花の香りを嗅ぎ、だんごむしやミミズと戯れ、きれいな蝶を追いかけ、鳥のさえずりに耳を傾け、雲や虹、雨や風、そして朝、昼、夕方、夜の違う質や、季節の巡りなどを体験し、生活や遊びの中で、大人とは全く異なる仕方で、自然界の法則、物理学、生物学、化学、天文学などを自主的に学び、身につけていきます。

 

 家庭でも、保育園でも、子どもたちが自主的に活動できる自然を直接体験できる環境を用意したいものです。園児たちがイベントとしての自然体験ではなく、日常の保育の中で南畑牧場やおひさま農園を体験できることは、本当に素晴らしいことです。先月の親子遠足は年一度のイベントですが、その一部を保護者の皆さまも体験できたのではないかと思います。

 

 そしてそのような環境の中で、私たち大人自身が、自然と触れ合い、驚き、美味しい、気持ちよいなどと感じることが当たり前にできたらどんなによいでしょう。大人は子どものお手本なのですから。

​2024年5月号

『子どもが健やかに育つ環境づくり』

 

 子どもの今の姿には、三つの流れが重なって現れています。一つ目は、遺伝や血の流れによって親、親族、民族から受け取った体質。お盆やお正月など、親戚が集まると、背格好、話し方や声など、自分とそっくりな親戚がいるものです。歳をとっていくと、自分が叔父や叔母に似てきていることに気づいたりもします。

 

 二つ目は、生まれなが持っている精神的な個性です。人間は、精神的個性のない白紙の状態で生まれてくるのではありません。双子などでは顕著ですが、同じ親から生まれて体質的にはとても似ているのに、全く異なる性格を持っているのです。

 

 三つ目は、生まれてからどのように生活してきたか、つまり環境です。子どもは生活の場にあるすべてのことの影響を受けます。そしてその影響を受けて体も心も精神も育っていくのです。環境には三つの側面があります。衣食住に関わるすべての物、子どもを取り巻く自然界も含めた物質的環境です。何を着て、何を食べて、どのように暮らすかだけでなく、暮らす空間や場の雰囲気などもここに入ります。

 

 次は時間的な環境。生活の中の時間的な秩序、リズム、繰り返し、あるいは、時間的な余裕があるかどうかも時間的環境に入ります。そしてもう一つは人的環境です。子どもが生活の中で出会う人間すべてが人的環境です。そして大人は子どもが真似していくお手本です。どのような人に出会うのかは、子どもの成長発達にとても大きく影響を及ぼします。

 

 遺伝による体質、生まれ持った精神的個性の二つは、先天的。その子どものこの二つの部分は、子育て、教育、保育などによって全く別のものに変えることはできません。変えようとするのでなく、子どものありのままの姿を受け入れて、生まれ持った性質がよりよく育っていくように寄り添い、導いていくしかできません。小松菜の種からほうれん草を育てることはできませんし、小松菜はどのような環境の下でも小松菜であり続けます。太郎くんも生涯を終えるまで太郎くんであり続けるのです。

 

 それに対して、環境は後天的。保護者も保育者も教師も社会も、子どもに直接関わることができるのは、この環境の中です。環境を作り整えることにこそ、私たちは直接関わることができるのです。そしてこの環境の中で、子どもの持つ先天的な体質と精神的個性は結びついていきます。この二つがうまく結びつけたとき、子どもは健やかに成長発達していきます。私たち大人が直接関与できる環境を、子どもたちの健やかな成長発達の場に、そして大人も含めた人間が、本来の人間らしい幸せな生活が送れるように、整え、作り替えて、よいものにしていけたらと思います。

​ しかしその際とても重要なのは、子どもの持っている先天的な身体と精神的個性を、そしてありのままの今の姿を、よく観察すること。それをしないで、大人が環境を勝手に作っていってしまったら、その影響を最も被ってしまうのは、子どもたちなのですから。

2024年4月号

『大家族としての保育園』

 

 4月になり、保育園では赤ちゃんも含め新入園児を迎えました。当たり前のことですが保育園には、メンバーは変わっていくけれども、常に0歳から6歳の子どもがいて、0歳から入園した子どもも6年経つと卒園して、小学校へと巣立っていきます。

 

 家庭の場合、この点は保育園と大きく違います。家庭のメンバーは通常同じで、同じチームでの生活が続いていきます。そして、それぞれのメンバーは毎年1歳ずつ年をとっていきます。今、乳幼児のいる家庭も、数年経つと乳幼児のいない家庭。当然、雰囲気や家族での活動は当然変わります。そして小学生もいない家庭になると、子どもの部活、受験勉強、アルバイトなどで家族皆での活動は減り、子育ての質も変わります。

 

 保育園には、常に小さい子どもがいて、保育の専門家としての大人が子どもと関わります。それに対し家庭では、子どもはどんどん大きく成長していきますが、親にとって、特に一番目の子どもは、何歳になってもその年齢の子どもと接するのは初めて。この意味で子育てのアマチュアであり続けます。しかし親こそが、子どもに対して一番の責任を負っているのです。このことが子育ての大変さの一つの原因でもあります。

 

 現代社会の大きな問題の一つは「親になるための教育」の欠如ではないでしょうか。学校で、親になることや子育てについて、特にその素晴らしさについて学ぶチャンスはほとんどありません。現代人は、親になることについて知らないまま親になり、体験を通して少しずつ親になっていくしかありません。昔は、大家族や長屋暮らしや村社会などで、先輩の親たちがいて、親になることを生活の中で直接体験しながら学ぶことができましたし、動物的な本能として親になることが普通にできたのかもしれません。

 

 保育園が、昔の長屋や村社会のような大家族だと想像してみてください。子どもたちはいろいろな大人たちに見守られ、その多様性の中で、健やかに育っていくことができるのではないでしょうか。そのためには、家庭と保育園の共同作業がとても大切です。

 

 今の滝山しおん保育園には専門家としての保育士でありながら、家庭では自分の子どもを育てている素敵な人間味あふれる先生がたくさん。これはとても有難いことだと思っています。

 

 保育士は、親から離れて保育園で過ごしている時の子どものことをよく知っていますし、子どもの成長発達などについても学んでいます。子育てで何か困ったことや悩み事などありましたら、ぜひ保育士に話してみてください。すぐに解決策が見つかるかはわかりませんが、話を聞き、寄り添って、何らかのアドバイスはできるのではないかと思います。子どもたちの健やかな育ちのために、乳幼児のいる生活を楽しみつつ、ご一緒に歩いて参りましょう。

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