2026年10月号
『自分と外の境界を体験するわらべうた遊び』
他の人との共通点はいろいろあると思います。血のつながり、同居、同じクラス、同じ地域、同じ仕事、同じ趣味、同じ推し、同じ民族、同じ国民、同じ血液型、同じ星座、同世代、同じ国民などなど。でも、当たり前のことですが、人間は一人一人が全く別の個人です。「私」は周りの人や社会、環境と切り離された「個」として存在しています。
子どもの成長発達を見てみると、子どもが自分のことを「わたし、ぼく、おれ」などの人称代名詞で自分のことを呼ぶようになるのは2歳半くらいから。それまでは周りの人に呼ばれている名前が文章の主語として使われます。「ターくんはね、さっちゃんはね」のようにです。個人差はありますが、2歳から3歳くらいの時期の「イヤイヤ期」「反抗期」にこの主語の変化があり、この頃から思い出せる「記憶」が始まります。子どもの描く絵では丸が閉じ、その後その円の中に目鼻口が描かれ、周りに向かって触覚というか髪の毛が伸び、やがて頭足人間(胴体がなく、頭から手足が出ている)を描き始めます。
イヤイヤ期には「イヤ」「ダメ」と言うことで抵抗を感じて、自分を確認する作業をしているのです。誰かを困らせてやろうという意図は全くありません。人間の発達のプロセスでこの時期に起こる自然現象のようなものと捉えることができます。
「個」として独立した自分意識を保つために、まず必要なのは、自分の身体が周りの世界とは切り離されているという感覚です。生まれた赤ちゃんは自分と周りの世界との境界を意識できない状態で、少しずつ自分の身体と出会い結びついていきます。生まれた時に持っていた原始反射は消えていき、自分で自分の身体をコントロールできるようになっていきます。
秋には入園希望の見学者が多いのですが、その際に「ここでは早期知育的なお勉強はしませんが、この時期の子どもは身体が賢くなることが必要なので、そのためのいろいろな活動があります」と伝えています。健康体操、手仕事、芸術活動、自然との触れ合いなどなど。これらは、感覚を通して自分の身体と、周りの自然界、人間たちと出会い、それにより自分と外との境界線を知るためのプロセスでもあります。
またしおん保育園ではたくさん「わらべうた遊び」をしますが、自分の身体を自分で触ったり、触ってもらったりする動きが、歌と一緒に繰り広げられます。自分の身体に触ったり触ってもらったりすることは、自分と外との境界を感じることを促してくれます。
例えばYouTubeで、わらべうた、体に触れる遊び、などと検索してみると、家庭で親子で楽しくできる、身体に触れるわらべうた遊びが紹介されています。子どもたちは、わらべうた遊びが大好き。ぜひやってみてください。直接身体が触れる楽しい時間が生まれ、子どもとの関係や時間が少し変わっていくかもしれません。
2026年9月号
『躾(しつけ)とお手本』
「身につく」という表現があります。また「しつけ」は「躾」という和製漢字で表されます。この漢字には「身」が含まれています。「身」や「からだ」は、子どもの成長発達にとって、とても大きな意味を持っています。
「身につく」とは、習慣となり、いつでも無意識に、当たり前のようにできるようになること。つまり「躾」とは、人として望ましい行為や美しいふるまいを、子どもに身につけさせることと言えるでしょう。
乳幼児期は、身体の成長発達が特に活発に進む時期。身体が成長していき、さまざまな運動能力も獲得していきます。この時期に身についたことは、特別な事情がない限り、一生涯失われにくいものです。
「躾」について、食事の場面を例に挙げてみます。食事中に、口に食べ物が入ったまま話すことや、肘をついて食べることは、栄養を摂取するという意味だけで考えれば、大きな問題ではないかもしれません。しかし、人間の食事や食文化という視点から見ると、こうしたふるまいは、習慣として身につけておきたい大切なことの一つでしょう。
では、どうすれば子どもに身につくのでしょうか。身につけるために必要なのは「繰り返し」。楽器やスポーツの練習を思い浮かべると分かりやすいでしょう。繰り返すうちに、意識しなくても自然にできるようになります。それができる身体になるということです。
しかし大人が「口に物が入っているときは話してはいけません」「ご飯のときは肘をついてはいけません」と繰り返し言ったり、叱ったりするだけでは、なかなか身につきません。子どもは「言われた」だけでは行動を変えにくいのです。大人は言い続けることに慣れていき、子どもは言われ続けても変わらないことに慣れてしまい、その状態までもが習慣として身についてしまうことすらあるのです。
子どもの周りにいる大人は、子どもにとっての「お手本」です。もし大人が、口に物を入れたまま話したり、肘をついて食べたりしていれば、子どもは「食事中はそうするものなのだ」と受け止め、それを当たり前のこととして、よいこととして、身につけていきます。
反対に、子どもに身につけてほしいことが、私たち大人自身の習慣になっていたらどうでしょう。これは、最も自然で、分かりやすい「躾」の方法です。大人が無意識のうちに繰り返している行動を、子どもは日々見ています。そして、見て、まねて、繰り返すうちに、その行動を自分のものにしていくのです。
とはいえ、よいお手本でいることは、決して簡単ではありません。そこでまずは、子どもに身につけてほしくないことを、子どもの前で「行わない」「言わない」「考えない」ことから始めてみてみましょう。それもまた、大人ができる大切なお手本の一つです。
2026年8月号
『あなたがたの子どもたちは、
あなたのものではありません』
カリール・ジブラン(Kahlil Gibran 1983〜1931、ハリールと表記されることも)は、レバノン出身の詩人、画家、彫刻家として活動した人。1923年に英語で発表された「預言者」(The Prophet)が代表的な著作です。私はドイツ留学中に実習していたシュタナー幼稚園の保護者から誕生日プレゼントにいただいて、この本のことを知りました。
アルムスタファという名の預言者が12年間オルファレーズという町で、故郷の島へ向かう船を待ちながら暮らしており、町の皆から敬愛されていました。島を去る日が来たとき、町の人たちは彼にその知恵を教えて欲しいと頼みました。「預言者」では、アルムスタファが問に答えるという形で、ジブランの思想が語られます。
愛、結婚、子ども、飲食、労働、理性と情熱、教えること、友情、時、善と悪、快楽、美、宗教、死など、語られるのは、人間にとって大切なものばかり。ぜひ読んでみてください。その中から「子どもについて」を紹介いたします。
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「子どもについて」
赤ん坊を抱いたひとりの女が言った。
どうぞ子どもたちの話をしてください。
それで彼は言った。
あなたがたの子どもたちは
あなたがたのものではない。
彼らは生命そのものの
憧れの息子や娘である。
彼らはあなたがたを通して生まれてくるけれども
あなたがたから生じたものではない、
彼らはあなたがたと共にあるけれども
あなたがたの所有物ではない。
あなたがたは彼らに愛情を与えうるが、
あなたがたの考えを与えることはできない、
なぜなら彼らは自分自身の考えを持っているから。
あなたがたは彼らの体を宿すことはできるが
彼らの魂を宿すことはできない、
なぜなら彼らの魂は明日の家に住んでおり、
あなたがたはその家を夢にさえ訪れられないから。
あなたがたは彼らのようになろうと努めうるが、
彼らに自分のようにならせようとしてはならない。
なぜなら生命は後ろへ退くことはなく
いつまでも昨日のところに
うろうろ ぐずぐず してはいないのだ。
あなたがたは弓のようなもの、
その弓からあなたの子どもたちは
生きた矢のように射られて 前は放たれる。
射る者は永遠の道の上に的をみさだめて
力いっぱいあなたがたの身をしなわせ
その矢が早く遠くとび行くように力をつくす。
いるものの手によって
身をしなわせられるのをよろこびなさい。
射る者はとび行く矢を愛するのと同じように
じっとしている弓をも愛しているのだから。
「ハリール・ジブラーンの詩」神谷美恵子訳 角川文庫 より
2026年7月号
『七夕の願いごと』
私が南沢シュタイナー子ども園でクラス担任をしていた頃、子どもたちと和紙を染めて七夕の飾りや短冊を作ったりしたのを思い出します。願いごとを聞いて書いてあげていましたが、年少児にはまだ、願いごとを言えない、決められない子どもも何人かいました。その時は、私はその子どもの名前を短冊に書いていました。
「みちこ」「ゆうき」「めぐみ」「しょう」、名前だけを書きました。「みちこ」ちゃんが「みちこ」として輝くこと、「ゆうき」くんが本当の「ゆうき」になっていくことが、その子どもの大きな願いごとだと考えたからです。もちろんその願いごとを子ども自身が意識することはありませんが。
「みちこ」ちゃんは「めぐみ」ちゃんには成れません。「めぐみ」 ちゃんのようにではなく、よりよい「みちこ」ちゃんに成長し、輝くことが、育っていく道のりであり、目標でないかと思います。
「みちこ」ちゃんは一生の間、「みちこ」であり続けます。他の人には成れません。当たり前のことですが、タンポポの種はどこに落ちても、タンポポであり続けます。しかし、種の落ちた場所によって育ち方は異なります。石畳の隙間に落ちて人に踏まれながらも花を咲かすタンポポ、柔らかな土に落ちて立派に育つタンポポ、環境が違うと育ち方は大きく変わりますが、タンポポであり続け、他の植物になることはありません。
子どもたちは、よりよい自分に育っていける環境を必要としています。親、家庭、保育士、保育園、そして社会の課題は、その環境を用意すること。子どもの傍らにいる私たちも子どもがよりよい自分になっていくことを促す環境の一部になれたらと思います。一人ひとりの子どもが、その人ならではの輝きを持って育ち、生きていけるように。
滝山しおん保育園の子どもの短冊の願いごとで、忘れられない願いごとがあります。その短冊には「何になりたい」、「何が欲しい」といった願いごとでなく、その子の今の本当の願いが書かれていました。

2026年6月号
『子どもへの言葉かけのヒント』
子どもに何かを言うとき、文章の最後のトーンが上がり、「?」が着いていませんか? たとえば、「そろそろ片付けようか?」「お手伝いしてくれる?」というように、子どもにお伺いを立てる感じです。でも、語尾を上げて質問文にしてしまうと、それに対して、子どもはかなりの確率で同じ答えをします。「片付けようか?」「いやだ、片付けない!」「お手伝いしてくれる?」「いやだ、お手伝いしない!」
しかし、その時の子どもの様子を見ていると、本当に片付けたくないのか、お手伝いしたくないのかというと、そうでもないのです。疑問文は多くの場合「ノー」という答えの誘導尋問になってしまいます。しかし一端「ノー」と言ってしまうと、発せられた「ノー」という言葉が力を持ち始め、その言葉に伴う感情が生まれてしまいます。言葉には力があります。
子ども達に何かを伝えるとき、疑問文ではなく、そして命令文でもなく、何をしたらいいかをそのまま伝えるとよいです。たとえば、「お片付け。」「お皿を流しに持って行っていいよ。」というように。片付ける必要があるので「片付ようか?」と聞くわけですが、ちょっと意識して、語尾を上げて疑問文にするのでなく、「。」で終わる文章で伝えてみましょう。意外と子どもにサッと伝わるものです。
何かを止めさせたいのであれば、「おしまい。」とだけ言うのもよいです。理由を言わない方が乳幼児には伝わるのです。必要としているのは「Why」よりも「WhatとHow」。具体的に何をしたらよいのか、どうしたらよいのか簡潔に伝えます。「こうこうだから、そうしてはいけません!」は、子どもには一番伝わりにくいのです。これでは何をしたらよいかが伝わりません。子どもに伝えない「Why」は、私たち大人はちゃんと知っていることは大切なのです。
今すべきことを具体的に簡潔に伝えていくと、子どもとの言葉のやりとりはシンプルになり、きちんと伝わるようになっていきます。いろいろな理由、説明や、大人の感想や感情の押しつけは、子どもには伝わらないことの方が多いものです。
乳幼児にお伺いをたてることは、主体性を育てることにはなりません。親や教師がその子が今なすべきよいことを、子どものために真摯に考えて決めてあげることは、子どもを支配することではなく、大人がちゃんと決めてくれることで安心し、大人との信頼関係も生まれ、健やかに育つことを促します。大人からのお伺いに答えようとすると、それにより乳幼児の未成熟な自分意識を早期に覚醒させ、その結果、自分自身でコントロールできない自己感情大きくなり、文字通り「わがまま」になってしまいます。
2026年5月号
『ご機嫌いかが?』
子どもたちが機嫌よく過ごしている姿は、とても素敵です。機嫌のよい子どもは、よく遊びます。ひとり遊びでも他の子どもとの遊びでも、自らその遊びに没頭し楽しんでいます。その際の真剣な顔つきにも笑顔にも、その子らしい光が輝いています。変にハイな状態で空騒ぎするのではなく、子どもなりにバランスが取れている状態で、転んだり、喧嘩したりしても、そこから自分で解決し折り合いをつけて、次に進んでいくことができます。
人間の社会や生活の中では、他の人との付き合いを始め、いろいろなことがありますから、いつも機嫌よく過ごすことはできません。いつも機嫌がよくなければならないのではありませんが、機嫌よく過ごすことが生活の大きな部分を占めたら、自分も家族も職場も社会もよい状態、健康な状態になると思います。
子どもの傍らにいる大人は、子どもにいろいろな影響を及ぼしています。私たちの機嫌も伝わっていきます。機嫌が悪いとき、例えばイライラしていると、そのイライラが子どもに伝わっていきます。機嫌よく過ごしているとき、その機嫌のよさが子どもに伝わっていきます。乳幼児の場合は、伝わるというより、大人と一心同体のような在り方をしているので、機嫌の悪さがそのままコピーされる感じです。
私たちの機嫌が悪いとき、子どもたちが何かをやらかしたら、すぐにイライラしてしまいます。それが伝わると、子どもの機嫌も悪くなってしまいます。どう機嫌が悪くなるかにはその子どもの個性が現れます。反対に私たちの機嫌がよいときは、子どもが何かをやらかしてもイライラせずに、その子どもを受け入れ、必要な対応をすることができるでしょう。
そこで大切なのは、自分の機嫌がよいか悪いかに気づくこと。特に機嫌が悪い、イライラしている、ことを把握できると、その機嫌の悪さを子どもに無意識にぶつけてしまわないですみます。これは、自分のことを客観的に見る視点を持つことによってこそ可能になります。
以前、保育専門学校で、就職活動を始める学生に「保育士として働くための心構え」について話をしたことがありました。そこでは、子どもの傍らに立つ人に先ず大切なのは、身体も、心(感情)も、精神的にも健康、よい状態であることと話しました。私たちの健康でよい状態だと、その機嫌のよさが、子どもに伝わるのです。そのような大人の傍らで、子どもたちは機嫌よく健やかに育っていくことができます。また機嫌のよい人が集う場は、家庭でも保育園でも職場でも、そこに集うことによって、機嫌よく過ごすことが促されます。
ご機嫌な子どもたちのために、ご機嫌な大人たちでありたいものです。
2026年4月号
『出会いの春、人生の春』
新年度が始まり、今年も新しい子どもたちがやってきました。みなさんご存知のように認可保育所は園児を選ぶことはできません。決めるのはお役所。東久留米市の保育幼稚園課(今年度から名前が変わりました)から、滝山しおん保育園に入園する子どものリストが送られてきます。どのような審査があったのかは、保護者にも保育園にも知らされません。
しかし、新年度が始まると新入園児や保護者にとって、滝山しおん保育園が自分の保育園。そして保育士、職員にとっても新しい子どもたちは私たちの園児です。
とても不思議な出会いです。慣れ保育が終わり、少しずつ新しい園児も保護者たちも、新しい職員も、滝山しおん保育園という大きな家族の一員となっていきます。血の繋がった家族ではありませんが、一つの運命共同体のような大きな船に乗り込むような感じでしょうか。
日本では4月に新年度が始まりますが、新しい出会いが春であるということは、とても素晴らしいことだと私は感じています。欧米のように長い夏休みの後、秋に年度が始まるのとは、気分もずいぶん違うものです。
人生を四季の巡りと重ねてみると、生まれてから成人するまでの時期は人生の「春」、その後の40代前半くらいまでが人生の「夏」、60歳くらいまでが人生の「秋」、その後の時期が人生の「冬」といえるかと思います。芽が出てどんどんと葉を広げ、成長していくのが春、子ども時代です。その後は社会や外へ向かって花を咲かせ、活発に活動していくのが人生の夏。自分の人生や社会の中で実が熟し、何らかの成果を上げていくのが秋。そして紅葉した葉や種は母なる大地へと帰って行き、次の準備を始めるのが冬という感じです。
この春の新しい出会いは、単なる偶然ではなく、滝山しおん保育園という場で出会う必要があるからこその出会いではないかと思います。子どもも大人も完璧な人間ではありません。共に生活していく中でいろいろなことは起こります。しかし体験したこと経験したことが学びとなって、子どもたちがその子らしく成長していけるように、人生の春を生きる子どもたちに寄り添っていきたいと思います。そして私たち大人も既に完成した人間ではなく、発展途上の人間として、学び、成長し続けていけたらと思います。私たちが成長するチャンスを与えてくれるのが子どもたちです。今年度もどうぞよろしくお願いいたします。